伍 変貌

 僕が空気なのは変わらない。

 

 まだ小さかった時は誰かに見てもらいたいと望みながら、誰にも見てもらえないことに絶望した。

 逃げるように通い、時間を潰していた場所が寂れた神社の鎮守の森だった。

 そこで出会ったのがアレだった。

 絶望を終わらせてくれるかもしれないと愚かな期待をした僕をまるで嘲笑うようにアレは『いつも見ている』と言った。


 アレはきっと見てはいけないものだったんだ。

 見たら、許されないモノに違いない。

 だけど”ぼく”だった僕は漠然とただ嬉しかった。

 それだけを昨日のことのように覚えている。

 『見ている』ことが嬉しくて、アレが『傍にいる』ことをただ望んだ。


 でも、アレをはっきりと目にしたのはその時だけだった。

 森の中で起きたあの出来事は単なる夢だったのかと思えるほどに僕の日常は色褪せていて、何も無かった。


 このまま、空気として生きているだけの日々が続き、いずれ風に吹き消されて、存在がなかったものになるのだと思っていた。

 彼女。

 紅葉くれはが現れるまでは……。


「どうしたの?」

「何でもない……」

「そんな顔していて、何でもないわけないよね?」


 森ではなく、くれはの家が僕の逃げ場所に変わった。

 彼女の家は旧家でいわゆるだった。

 ”ばあや”と呼ばれる小さなおばあさん――ちぃさんがいて、彼女の身の回りの世話はちぃさんが全部やっていた。

 彼女の頭の髪は全部、白く変わっていて……。

 それはまるであの日、後ろ姿を見た小さな影の灰を被ったような色によく似ていた。

 おばあさんなのにそう感じない不思議な人だった。


「分かった。のんくんはうちにずっといたら、いいんだよ」


 くれはの言うことはたまに僕をドキリとさせる。

 彼女は嘘を言わない。

 僕にだけ見えて、僕のことだけを見てくれる友達。

 彼女の甘い囁きはまるで悪魔の誘いだった。

 甘い毒は徐々に僕の心に沁み込んでいった。




 僕達は六年生になった。

 来年には卒業だ。

 中学生になるのが、まだ現実として受け入れられない自分がいる。

 

 しかし、否応でもそれを認めなくてはいけない変化が僕自身に起きていた。

 体が変化し始めていると気付いたのは思い出したくもないのせいだ。

 僕は家族が使わない時間にこっそりと入浴することにしていた。

 小学校に上がる前から、ずっとそうだった。

 その日も水と変わらない液体で満たされた湯舟に浸かり、ただ時が過ぎるのを待っていた時、ふと気配を感じた。


 すりガラスの向こうに人影が見えて、それがだとすぐに気付いた。

 影が大人の大きさではなかったからだ。

 の影は洗濯物を放り込んだ洗濯籠の辺りで止まり、何かをしているようだった。

 水に体を委ねて、様子を窺っているうちにはいなくなった。


 変な匂いが立ち込めていた。

 今までに嗅いだことがない不快で吐き気を催す匂いだった。

 止せばいいのに僕は匂いの元を探してしまったのだ。


 洗濯籠の中に放り込んだ僕の下着にぬめぬめとした変なモノが、擦りつけられていた。

 何かをしていたの呼吸が乱れていたのはきっと、これのせいに違いなかった。

 吐き気がこみあげて、我慢が出来なかった。


 それから、時折感じたのはふと向けられる嫌な視線だった。

 だけではなく、からも向けられる気持ちの悪い視線が僕を追い詰める。

 からも嫌な視線を向けられた。

 それは二人とは違うあからさまな嫌悪だ。


「のんくんがそうんなら、そうしていいんだよ」


 そう言ったくれはの顔はあの時、見たアレに似ていた。

 聖母みたいだ。

 そう思いながらも僕はつい「どうして、そこまでしてくれるの?」と聞いてしまった。


「だって、のんくんはわたしの大切な×××だもん」

「え?」


 口角を上げたくれはの口許で大きな八重歯が目立って見えた。

 耳元で囁かれたのに。

 いや、耳元で囁かれたせいでよく聞き取れなかったのかもしれない。

 きっと”ともだち”と言ったのに違いないと思うことにした。


 体に変化が訪れ始めてから、僕の髪は段々と顔もよく覚えていない母親に似てきた気がする。

 炭を塗したように黒かった髪が灰を被ったとしか言えない色に近付いている。

 僕の世界が色を失っているように僕の髪もまた、色を失っていくみたいで嫌だった。


 そして、僕達は中学生になった。

 制服はくれはが用意してくれた。

 黒の詰襟の学生服に手を通すと彼女は自分のことのように喜んでくれた。

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