面影

仙石勇人

面影

 神戸の栄えた通りの真ん中から小道へ抜けて、ほんの十秒も歩けば、そのバーにたどり着くことができる。

 L字型のカウンターは、六人座れば満席になる。店内には、歌声のない音楽が、会話の邪魔にならない音量でやわらかに流れていた。

 アロハシャツを着た無口な白髪の老人のためにバーテンダーの青年がつくったカクテルは、清涼感のある紫色で透明なグラスを満たした。

 老人は、黙ってカクテルで唇を湿らせた。薄い、カバーの取れた文庫本を数ページめくりながら、二十分ほどかけてグラスを空にした。

「ありがとう」と静かにつぶやいて、老人はカウンターに千円札と硬貨を数枚置いて、バーを後にした。

 バーテンダーの青年は、グラスをテーブルから引き、流し場で洗った。

 洗い立てのグラスに映る彼の顔は凛々しく引き締まり、とても美しかった。

 チェット・ベイカーの『 If I Should Lose You』が、切ないトランペットの響きとともにフェードアウトしたころ、ちょうど入り口の扉が開かれた。

 黒革のシャネルのハンドバッグを手にした女性だった。茶色い髪は巻かれてウェーブをつくり、首からは二連の白いパールのネックレスが光っていた。

「お好きな席へどうぞ」

 彼女は、青年とちょうど正面の席に座った。

「何になさいますか」

「懐かしい気分になれるカクテルを」

「なるほど、面白い注文ですね」

 彼は品よく微笑んで見せた。

「あのね、今日は、懐かしい、とっても個人的な話を、私のことをいっさい知らない人に、途中で口を挟まないで聞いてほしいの。そういう気分で、そういう目的で、ここに来たの」

「私でよければ、お聞きします」

 彼は、店の奥の壁際に設置したエスプレッソマシンのスイッチを押した。

抽出したエスプレッソを小瓶で受けている間、グラスの底にカットしたライムを6個敷き、シロップを加えた。フルーツペストルでライムを潰し、ジンを注ぐ。その上に氷を積み、トニックウォーターを氷の周辺に円を描くように注いだ。

 シングルショットのエスプレッソを氷の上に注ぐ。

仕上げに、ライム片をグラスのふちに掛けた。

「エスプレッソジントニックです」

 彼女は、そっと口づけをするように、黄緑・白・茶色の層を成したカクテルを、ごく少量口に含んだ。

 青年の目はその動作に引きつけられた。グラスから彼女の高い鼻へ続くラインは、芸術作品のような造形美をつくっていた。

「…私、学生時代、いじめられてたの」

 彼女は細い指先で髪を耳にかけながら、話し始めた。

「本が好きでね。教室の休み時間によく小説を家から持ってきて読んでたんだけど、それが周りの男の子にはもの珍しく見えたみたい。表紙に落書きされたり、水に濡らされたりしたわ。でも、周りになにかされたからって、自分の好きなことや、やりたいことを変えるのはいやだったの。ちょうど、その頃読んでた海外の小説に出てくる主人公の女の子が、そういう信念を持ってることもあってね。でも、そういう態度が気に食わなかったのかしらね。いじめは数ヶ月経ってもおさまらなかった」

 青年は、相槌の代わりに、彼女の目と口元に、まっすぐな視線を注いでいた。

「実はね、私には読書友達がいたの。その子とは、ときどき本屋に行ったり、喫茶店でお茶をしながら同じ本の感想を語り合っていたの。彼女とは別のクラスだったんだけど、不思議なことにね、その子はいじめられたりはしなかったの」

 彼女は、一呼吸置いて、グラスを傾けた。三層の色は、小さく溶け合い始めていた。

「好きなことはやめたくないし、曲げたくない。でも、いじめられるのもうっとうしい。だから、私と彼女は何が違うんだろうって考えたの。明るさ? 読んでる本のジャンル? しばらく考えて出た結論、というか、最初からわかってたけど気づいてないふりをしてた答え、それは」

 彼女は、遠い目をした。

「外見だった。彼女は黒くて長い髪が綺麗で、横顔はモデルさんみたいにきれいで。ほら、逆説的だけど、サンドバッグって、あの見た目だから殴りやすいのよ。逆に、あれに美術的装飾なんか加えたら、本来の役割って、きっと果たせない」

 彼女は自虐的に笑った。

「私は、やることは変えないで、見た目を変えようと思った。美しくなろうと思った。いじめられていた私はおかっぱ頭で、小太りで、顔にもポツポツにきびができてた。文芸部だったから運動する機会もなかったけど、学校から帰ってきたら、家のマンションの周りを五周走った。髪も伸ばした。お菓子もやめた。友達も、お菓子を急に食べなくなった私を心配したわ。少しずつ、私の外見は変わった。恋とは縁のない人生だと思ってたけど、一人の男の子から、告白もされた。彼は体が大きくて…まあ言葉を選ばず言えば太ってて、ブサイクだった。額にかいた汗を、いつも馬の刺繍がついたハンカチで拭ってたのを覚えてるわ。告白の文言も覚えてる。彼も趣味が似てたから、君がこないだ読んでた本、実は俺も読んでたんだ、これは運命だって。女子生徒から人気のある男の子じゃなかったけど、素直にうれしかったから、しばらく付き合ったの」

 そこまで話して、彼女は立て続けに2回くしゃみをした。

「寒いですか?」

「そうね、少し上げてくれる?」

彼はすばやくエアコンの温度を二度上げた。

「ありがとう。それでね、その子から告白されたのを皮切りに、私はちょっとずつモテるようになった。この体験が、私の価値観を変えたの。それまでは、いかに面白い物語に出会うか、それを堪能するか、それだけが、私の生きる喜びだったのね。でも、変わった。自分を磨いて、少しでも美しくなって、男の子から好意の目を向けられることが、なによりの喜びになったの」

 彼女は、息をつぎ、グラスをあおった。途中、縁に刺さったライム片が邪魔になったのか、外してテーブルに置いた。

「それから、私は本を読まなくなった。文芸部からサッカー部のマネージャーになって、付き合う女友達も変わっていった。黒い文字がぎっしり詰め込まれた紙の束を眺める日々から、私の目に映る景色は、一転して、キラキラしたものになった」

 彼女は、グラスの底に残った液体を空にした。

「初めて整形したのは、大学1年生のころね。アルバイトで稼いだお金は、ぜんぶ美容整形につぎ込んだわ。課金するほど強くなるスマホゲームみたいに、私の美しさはどんどん強くなっていった。大学2年になって、ガールズバーで働くようになってから、収入が増えた。入ってくるお金の量は、私の美しさに換わっていく。ガールズバーのお客さんに、北新地で一番格が高いキャバクラのオーナーがいてね。その人にスカウトされて、今度はそのキャバクラで働き出した」

「どうりでお美しいと思いました」

 彼は、そこで初めて口を挟んだ。

「そこで6年勤めて、正直、ふつうのサラリーマンが一生で稼ぐお金の2倍以上は稼いだわ。整形欲も天井に達していたから、貯金がすごいペースで溜まっていって。ファイナンシャルプランナーのお客さんから来店するたびに投資のことを教えてもらって、自分でも勉強するうちに、『私、もうこれ以上、がんばって夜の世界で働かなくていいんじゃない?』って思って、辞めてきたの」

「いつです?」

「今日よ。お祝いして」

「おめでとうございます」

 ジョン・コルトレーンのアップテンポの曲が、唐突に終わった。静寂が店内を満たした。

「これからは、どうされるんです」

「あんまり考えてないわ。あ、でも、久しぶりにゆっくり本を読んで過ごしたいの。なにか、オススメはある?」

「ごめんなさい、本は読まないんです」

 彼女は悪戯っぽい目で彼をにらんだ。

「そう。」

「なにか、飲まれますか」

「ううん、お会計してくれる?」

 彼女は、財布からお札を支払って、釣銭を受け取った。

「昔は、よく読んでいたんですが」

「何を読んでいたの?」

 彼は、とある本のタイトルを口にした。彼女は目を見張った。

「それ、読んだことあるわ。たしか誰かにすすめられて…」

 彼女は、懸命に思い出そうと頭を抱えていた。

「だめだ思い出せない」

「次来る時までに、思い出してください」

「ふふ。それ、もう一度読み返してみるわ」

 彼女は、神戸の夜に消えていった。

 一人きりの店内で、青年は空になったグラスを下げた。プレイリストは、緩やかにアレンジされた『Fly Me to the Moon』を彼に聴かせる。

 ていねいな手つきでグラスを洗い終わった彼は、ポケットからハンカチを取り出して手の水滴を拭き取った。

 年季の入ったそのハンカチは、学生の頃から使っている、ラルフローレンのもの。

 彼はウイスキーの瓶が並べられた棚のガラス戸の反射を見ながらシャツの襟とネクタイを正したのち、彼女の座っていた席の水滴を丁寧に拭き取った。

 次の客がバーの入り口を開くまでのその間、彼は斜め上に目線をやり、遠い目をして記憶を遡り始めた。

 顔にメスを入れる前の二人が、一冊の本を挟んで笑い合っていたあの日々に戻ることなど、果たしてできるだろうか。

 彼は、自身の周りに漂う時間がにわかに巻き戻っていくような感覚を覚えた。その感覚に身を任せる。身体が浮き、抵抗できない力で別の場所に連れ去られそうになる錯覚を、扉が開く音がさえぎった。

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