第19話 美咲家

 澪とは一旦別れて、荷物整理と着替えのために自宅に戻った。


『今夜は澪の家に行ってくる』


 まだ仕事中かも知れない母さんにそう連絡を入れると、『バームクーヘンの残りがあるから持って行きなさい』、と返事があった。

 何かのお土産で母さんがもらったものだったが、確か澪の好物だったはずだ。


 いつも部屋で着ているラフな格好に着替えて、お土産と重たい勉強道具一式を担いで外へ出る。


 5分程歩いた先に10階建てのマンションがあり、その中層階の一室が澪の自宅だ。

 築何年くらいだろうか、白壁のところどころが、黒くくすんでいる。


 ここへ来るのはしばらくぶりだ。


 インターホンのボタンを押すとドアがガチャリと開いて、人なつっこそうな笑顔が出迎えてくれた。


「おつかれ。さ、入って」

「ああ、サンキュ」

 

 澪の後について中に入ると、綺麗に片付いたリビングの片隅に、小さな仏壇があった。

 そこには、彼女とよく似た女の人が微笑む写真が置かれている。

 いつものようにその前に座り、お線香に火をつけて手を合わせる。


 こいつのお母さんは綺麗な人だったんだなと、いつも思う。


「ほい、お土産」

「ありがとう、なに?」

「バームクーヘン」

「わーい、後で食べようね。先に夕飯食べるでしょ?」

「おう。いつも悪いな」


 既に黄昏時を迎えていて、リビングの窓からオレンジ色の光が降り注いでいる。


「適当に座っててよ。今オムライスとスープを作るから」

「はいよ」


 白い短パンから覗く生足を躍らせて、澪はキッチンへと向かう。

 フンフン♪ と鼻歌を歌いながら、冷蔵庫から食材を取り出し、調理用のボールや食器を並べている。


 ソファに腰を下して、トントンと包丁が奏でる音を聞きながら、しばらくぼーっとする。

 やがて、フライパンから食材を炒る音と、食欲をそそる香ばしい匂いが流れてくる。

 

 ふと料理をしている後ろ姿に目をやって、それはいつも眺めていたものではあるけれど、何だかとても大事なものに思えた。

 

「はい、お待ちどお。できたよ」

「お、ありがと」


 澪がリビングの方へ運んできたオムライスの上には、ハート型のケチャップが乗っかっていた。

 崩すのが勿体ないなと思いながら、やわやわの黄色い玉子にスプーンを入れる。


「うん。ふわとろで美味いなあ」

「でしょお? よかったら、お代わりもあるからね」


 野菜が具沢山のスープの方も味がよく、塩気が利いていて俺好みだ。

 あっという間に一皿目を平らげて、


「澪、お代わり!」

「はい。玉子焼いちゃうから、ちょっと待ってね」


 澪はフライパンで玉子を焼いて、慣れた手つきでもう1皿オムライスを作ってくれた。


 お腹がいっぱいになると頭に血が回らないので、そこからしばらく雑談タイムに。


「明日の登校日、文芸部のお食事会があるんだよ」

「そうなんだ。どこで?」

「学校の部室だよ。顧問の先生が、お菓子やら料理やらを差し入れしてくれるらしいんだ」

「へえ、面白そうだなあ」

「よかったら、お前もくるか?」

「え、いいの?」

「ああ、知り合いがいたら連れてきてもいいってさ。でも十中八九、猛烈な勧誘が待ってるんだろうけどな」

「うーん……」


 そこで、澪が複雑そうな表情を浮かべた。


「どした?」

「あのね、宗……」

「うん」

「もしかしてだけど、朱里、やっぱり宗と二人で話したかったんじゃないかって思うんだ」

「……そうか?」

「そりゃ、今日だって楽しかったし、朱里と仲良くなれるのは嬉しいよ。だけどね、文芸部にまで私が顔を出しちゃって、いいのかなって……」


 確かに最近までは梅宮さんと一緒のことが多かったが、彼女が俺と二人で話したいっていうのが何なのかは、今一つピンとこない。


「そこはよくわかんないけどさ。じゃまあ、明日は俺だけで行ってくるよ。梅宮さんには、ちょっと埋め合わせもしておこうかな」

「埋め合わせ?」

「ああ。また二人でどっかへ……」

「おい!」


 途端に澪が、針のような眼差しを俺に向けた。


「……冗談だよ」

「全く……。ま、私が言い出したことでもあるんだけどさ。そこはほどほどにお願いしますよ、お兄さん」

「御意」


 冗談めかした言葉遣いではあるけれど、澪は心配そうな顔つきで、俺の目を見入っていた。


『ピンポーン』


 とインターホンが鳴り響き、


「あ、宅急便来たかな?」


 応対を済ませて、玄関から大きなダンボール箱を抱えてくる。


「お母さんの実家からだな」


 その場でビリビリと梱包のテープを剥がして、箱を開けた。


「わ、桃。美味しそう!」


 そこには瑞々しい桃や、新聞紙に包まれた何かが、ぎっしりと詰め込まれていた。


 ダンボール箱をキッチンへ持って行って帰ってきた澪が、静かに口を開いた。


「私ね、お母さんの実家に住んでたかも知れないんだ」

「え、そうなのか?」

「うん。お父さんの仕事のこともあったからさ、その方がいいんじゃないかって」

「そっか……もしそうなってたら、俺達って出会ってなかったのかもな」

「そうよね」


 そんな会話からしばしの沈黙の後、澪ががばっと抱きついてきた。


「……おい、どうしたんだよ?」


 突然のことに戸惑いながら、彼女の頭をぽんぽんと軽く叩いた。

 ぐっと手に力を込めて俺を抱き寄せて、離れようとしない。


「よかったよ、ほんと。こうやって宗と出会えてて」


 そんなことを、俺の耳元で小さな声で呟く。

 熱い吐息が、耳元を柔らかくくすぐってくる。


「……うん、そうだよな」


 しみじみそう思って、そっと手を伸ばして、俺の方も澪の背中を引き寄せる。


 もしお母さんの実家に住んでいたら、7年間の思い出はなく、今こうして一緒にいることもなかっただろう。

 その分、普通の小学校の女の子だったらしなくてもいい経験や苦労も、たくさんあったはずだ。

 普段、料理やら掃除やら家事全般までそつなく気を配ってくれているが、それが過去のそうした経験で培われたものであるかもと考えたら、何だか複雑な感じがした。


 考えてみると、今までは俺が彼女に何かをしてあげることよりも、彼女から与えられることの方がずっと多かったように思う。


「俺、ちょっと家事でも頑張ろうかな」

「どうしたの、急に?」

「お前と一緒にできること、もっと増やせたらなって思っただけだよ」

「私は…… もっと宗に、好きになってもらえるように頑張るから」


 息がかかりそうな超至近距離からそう言って、澪が口元を綻ばせた。


 もっと好きになって、そしたら澪のことを――

 俺が澪に伝えた言葉だ。

 多分そのことを言っているのだろうけど。


「頑張んなくていいよ。俺は今のまんまのお前が、いいと思うからさ」

「……そうなの?」

「うん」

「たまに面倒くさいとか、思わないの?」

「それは、確かに」

「おい」

 

 澪は変わらなくていいし、変わって欲しくない。

 後は、俺自身がどうかってことか――


 そのまましばらく体をくっつけたまま、お互いの温もりを感じ合った。


「あ、そ、そろそろ勉強しなきゃね?」

「ああ、そ、そうだよな」


 お互いに小恥ずかしさを隠しつつ、腰を上げて澪の部屋に向かった。


 久しぶりに足を踏み入れた彼女の部屋は、机の上に使いかけの化粧品がいくつか出しっぱなしになっていることを除けば、綺麗に片付けられていた。

 薄いピンク色のカーテンやベッドカバーに、きらきらした小物や本が収まった白いクローゼットとかを目にすると、女の子の部屋なんだなと実感してしまう。

 何かの残り香だろうか、仄かにフルーティな匂いが鼻の中に流れてくる。


 壁に立てかけてあった折り畳みテーブルの脚を広げて、部屋の真ん中に置く。

 俺と澪とがそろった時に活躍する勉強机だ。


「さ、何からやろっか?」

「数学からお願い願う、先生」

「任せたまえ」


 学校への提出物はみんな同じなので丸写しさせてくれたら早いのだが、そこは変に頑ななところがあって、いつも許してくれない。

 観念して、自分の課題集を開けて、溜息をつく。


「二次関数なんて、この世から消えてなくなればいいんだ」

「これからもっと色々出てくると、楽しいわよ? 微積とかベクトルとか」

「そんな呪文のスペルのような言葉は、俺の辞書には無いんだ」

「呪文を修得できるかどうかは、君の修行次第ですなあ。じゃ、次ね」


 多分こいつは将来リケジョになるんだろうなと思いながら、数式と睨めっこする。


 ベッドの枕元に置いてある時計の短針が10を超えたあたりで、インターホンが鳴った。


「あ、お父さん帰ってきたかな」


 澪が玄関に出迎えると、聞き慣れた野太い声が響いて来たので、俺もそちらへ顔を出した。


「こんばんは、お邪魔してます」

「おお宗君、よく来たね。後で一局指そうか?」

「お父さん、今勉強中なのよ。晩御飯食べるよね?」

「ああ、頂くよ」


 辰男さんの登場で勉強会は中断し、豪快に酒を呷っている横で、俺は澪が出してくれたバームクーヘンと桃をつまむ。


「あいつの実家からか。そういえば最近、顔を出していないな」

「うん……」

「次のお彼岸の時くらいに、考えるかな」

「そうだね」


 立ち入るのが憚られる親子の会話に耳を傾けていると、


「そうだ、宗君、もしよかったら、一緒に行かないか?」

「え、俺ですか?」


 今までそんな話をされたことがないので、意表を突かれて固まってしまった。


「ああ。ちょっと遠いけど、澪も一人よりも、その方が退屈しないだろうし。旅費の心配はしてもらわなくていい。すぐ傍に温泉なんかもあるぞ」

「ちょっとお父さん、急にそんなこと……」


 澪も困惑気味に、こちらへ視線を送って来る。


「お義母さんにも紹介出来ていいかもな。澪の未来の旦那さんです、ってな」

「ちょ……っ お父さん!?」


 相変わらず豪快な人だなと思って苦笑いをしながら、


「ちょっと親に相談してみますね……」


 と答えた。


 それから、食後の辰男さんと将棋盤を囲んだけれど、ほぼ澪と二人がかりだったにもかかわらず、今まで通り全く歯が立たなかった。



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