第三章~⑮
あの女の夫が銀行員ならば、コロナ禍でも給与は減っていないだろう。恐らく周囲のママ友達も似たような経済状態の人間ばかりに違いない。一時期、幼稚園などが閉鎖して子供を預けられずに苦労している母親達がいた事は知っている。
だが私が見た彼女達は、とてもコロナ禍で生活が苦しくなったと思えない。これまで旅行や外食などで浪費していたお金の使い先を、巣ごもりという名目で日頃の食事に回し、ストレス発散しているようだ。
それはそれで辛いと思っているのだろう。住む世界が明らかに異なる。だがどうしても比べてしまう。この行き場のない怒りは、どこにぶつけていいのか分からなくなった。
その為あの江盛家は今、どういう暮らしをしているのか。またあの女の暮らしぶりを知っているのか。知っているならどう思うのかを聞きたい。そう考えるようになっていた。
しかし加害者家族が被害者遺族に会うというのは、当然ながらとてつもなく勇気がいった。事件から約七年が経過しており、今更何をしに来たのかと責められるかもしれない。どんな罵声を浴びせられるかと想像したら、恐ろしくて足のすくむ思いがした。
「やっぱりやめようか」
母親の住所を突き止めた後、私は何度もそう考えた。しかし手紙に書かれていた件を彼らが知っているのか。あれは本当なのか。もしそうだとすれば、由美を何故放置しているのかを尋ねたかった。
一方でもし把握していなかった場合、母親に余計な情報を与えてしまいかねない。または事実と異なっている場合もあり得た。
そうだとすれば、私は単に人を殺した罪を軽くしようと画策する、卑怯な加害者家族となってしまう。そうした事態は避けたい。遺族の心にある傷を再びえぐり、塩を擦り付ける行為に等しいからだ。第一、父が望まないだろう。その為に長い間、躊躇していた。
けれどもこのままあの手紙を見なかったことにし、心に蓋をする覚悟までは持てなかった。私の気持ちが晴れないだけでなく、これ以上更なるストレスを抱えたまま生きていくのは余りに辛すぎる。
どちらを選んでも嫌な思いをしなければならない。そこで天秤にかけた結果、やらぬ後悔よりやる後悔を選んだ。
手紙を発見し読んでしまった時点で、私の運命は決まっていたのだろう。しかも偶然だったが事件の起こった日であり、江盛勝治の亡くなった命日が迫っていた。その為現状維持の選択肢は無い。そう結論を出したのだ。
怯えた気持ちをなんとか押さえ、気持ちを奮い立たせ江盛の母親が住む、佐藤の表札を掲げた一戸建ての家を訪ねた。シックな服装をし、日持ちする菓子折りも持った。
突然の訪問であり、追い返される可能性だってある。だが線香の一つでもあげさせてもらえないかと頼もう。話が聞けなかったなら、それはやむを得ない。扉の前まで来て、チャイムを鳴らす直前までそう呟いていた。
思い切って押すとインターホン越しに男性らしき声がした。
「はい。どちら様でしょう」
調べたところでは一人暮らしのはずだ。もしかして間違ったのか。それとも既に別の住所へ移っているのかもしれない。または別の男性と再婚した可能性もある。
そう思い緊張したまま、何度も確認して練習した言葉で答えた。
「佐藤さんのお宅でしょうか。突然申し訳ございません。葵水木と申しますが、私の父は多賀目良晴です。今更で恐縮ですが、江盛勝治さんにお線香を上げさせて頂けないかとお伺い致しました」
先方が息を呑む気配がした。否定しなかったところを見ると、ここが江盛家であることは間違いないようだ。どういう反応を示すかをじっと待っていた。
ほんの僅かな間だったのかもしれないが、とても長く感じられた。針の
だが思いとは裏腹に、慌てた様子で応答があった。
「少しお待ち下さい。直ぐ開けますから」
会ってくれるのだと安堵しながら、何を言われるだろうかという不安もあった。しかしこの期に及んで引き返すことなどできない。
言葉通り扉はすぐに開いた。まず目に飛び込んできたのは、不安げな顔をして立つ老齢の男性だった。怒鳴られる覚悟でいただけに拍子抜けしたが、気は緩めなかった。
深々と頭を下げ、改めて名前を告げ用件を伝えた。
「葵水木です。多賀目良晴の妻だった智子の連れ子なので、父とは血が繋がっていません。あの後両親は離婚をし、私は父方の祖母の養子となって姓を変えました。その母が昨年亡くなった為に遺品整理していたのですが、その時父から母に宛てられた手紙を見て、一度お伺いしなければと思い参りました。今更だとお思いでしょうが、勝治さんにお線香だけでも上げさせては頂けないでしょうか」
すると彼は意外にも驚いたように言った。
「お母さんも亡くなられたのですか。お気の毒に。確か私よりお若かったでしょう。それにあなたも被害者のようなものなのに。こんな所では何ですからお上がり下さい。散らかっていますがどうぞ」
そう告げただけでなく、彼は江盛の父親だと名乗り驚いた。
どうやら離婚して別居していたが、それは避難する為の一時的なものだったらしい。その後籍を入れないまま同居していたと教えられた。さらに奥様は昨年癌で亡くなり、今は一人で暮らしているという。
そんな彼に促された為、私は恐縮しながら靴を脱いで上がった。
ドアを開けリビングに入ると、奥にある引き戸の先に仏壇が見えた。そこへ通され、座布団まで出されて座った。彼もまた同じく畳の間に腰を下ろした。私は持っていた菓子折りを渡しながら言った。
「今日は命日ですよね。つまらないものですが、これをお供えしてもよろしいでしょうか」
「それはご丁寧に。有難うございます」
受け取って貰えたので頭を下げ線香を手に取り、火を点け合掌した。質素で小さな、しかし綺麗な仏壇だった。毎日手入れされているに違いない。息子の勝治と奥様だろう。位牌の前に写真が二つ置かれていた。私は顔を上げ、改めて頭を下げた。
「私の父が、本当に取り返しのつかない事をしてしまいました。申し訳ありません。両親に代わってお詫び申し上げます」
「頭を上げて下さい。先程も言いましたがあなたも酷い目に遭ったでしょう。あれはあくまで事故だったのです。うちの息子が調子に乗り、殴り掛かったからいけなかったのです」
正治と名乗った彼はそう言い、話を続けた。
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