第三章~⑫
その時は、自分達が他の部屋に住む住民側だったとしたら、同じく不安に感じると思い従った。管理会社の要求通り、勤務中で部屋にいない時間を狙って業者に頼んだのである。けれどもその後、アパートの住民達が時折見せる視線が気になり始めた。
以前までは夜勤もあれば早朝勤務もある等、母と違って不規則な生活をしていた為、余り他の人達との関わり合いがなかった。よってほとんど顔を見る機会もなく、また会っても黙って頭を下げる程度の付き合いで済んだ。相手の反応も素気無いものだったので気にしていなかった。
しかし一人になってから雰囲気が変わった。バッタリ会う度に睨まれ、すれ違いざまに舌打ちされ、またはわざとらしく小走りに離れ距離を置かれるようになった。
面と向かって何か言われたり、それこそ管理会社から出て行くよう促されたりまではしていない。それでも明らかに住み難くなった。よってそろそろ引っ越した方がいい、と考えていたのだ。
単なる賃貸物件で、特にここでなければいけない理由もない。それに母がいなくなって二DKである必要も無くなった。一人ならもっと狭い一Kでも十分だし、その方が家賃も安い。引っ越し代や新居に入る際の初期費用はかかるけれど、長期的に見ればお得だ。
そう思っていたけれど、多忙だったこともありこれまでずるすると先延ばしにしてきた。そこで思い切って自分の荷物整理もし、母の部屋も片付けることにしたのである。
母がかつて寝起きしていた部屋に、これほど長く滞在するのは久しぶりだった。亡くなった直後にドタバタと何度か出入りしていたが、ここ最近は時々換気の為に窓を開ける程度で、ほとんど近寄らなかったからだろう。母が寝込んでいた時は当たり前のように座っていた場所なのに、まだほんの一年程前だが、懐かしいとさえ思ってしまった。
部屋の隅から準備したダンボール箱やビニール袋に仕分けしつつ、
― お母さん、こんなものを持っていたんだ。あっ、私が小さかった時にあげた手紙とかもある。ずっと取っておいてくれたんだ―
そんな想いを抱きながら呟き、時々手が止まっていたからだろう。なかなか整理は進まない。それでも今日はここまでと決め、少しずつ廃棄処分していった。
ほとんどが捨てるものばかりだ。それでも惜しいと思ったものが少なからずある。母を思い出しながら作業している時間は、何ものにも代えがたい大切なひと時でもあった。
しかし片付けがほぼ終わりかけたある日、押し入れの奥に仕舞われた段ボールの片隅から、父が母に当てた手紙の束を発見した。最初は付き合い始めの初々しいやり取りだった。その為、一人ではしゃぎながら読んでいた。
―お父さん、こんなこと書いていたんだ。恥ずかしい。でもお母さんは嬉しかったと思うな。だってすごく好きだったって想いが、今でも伝わってくる―
そんな独り言を言っている途中で、逮捕されてから受け取った手紙に変わり、複雑な心境になった。内容のほとんどが母の体を気遣い、また私が元気にしているかを尋ね、最後は謝罪で終わるというものだった。当時の苦しい生活が蘇り、眉間に皺を寄せながら読み進めていた。
そうして最後の一通になり、それを恐々と開けた。何故ならこの後父は突然死してしまうのだ。その前に体の不調などを訴えていたとは聞いていない。それならどういう言葉を残しているのかが気になったからである。
しかしそこには全く想定外の、驚くべき内容が書かれていた。私は息を飲み何度も読み返した。それは獄中における最後の手紙でなく、裁判で判決が出た後に弁護士を通して母に渡されたものだった。
一回目に読み終わった時、こんなことがあっていいのかと信じられなかった。二回目に目を通した際はそれが困惑に変わり、三度目で怒りを覚えた。
―これって本当なの―
思わずそう呟いていた。だがそれまでの手紙と比べても、字は間違いなく父のものだ。よって嘘では無いと考えていいだろう。
だがだったらどうして母は私に何も教えてくれなかったのか。そんな疑問が湧いたけれど、まさか刑務所内で死んでしまうなんて、想像していなかったのかもしれない。
最長でも刑期が満了する三年待てば会える。そう信じていた可能性に思いが至った。だから真実を隠し刑務所にいたのだろう。
ここに書かれているように、裁判で証言したからといって罪が軽くなる可能性が薄いと判断したようだ。余計心証が悪くなり、刑が重くなることを避けたかったとも言える。
それに世間が大騒ぎしあの女を責めるような事態は望まないとも書いていた文を読み、どれだけお人好しだったのかと呆れた。
母はこれを読んで怒らなかったのだろうか。私は全然気付かなかった。とにかくあの頃は周囲の目から逃れる事ばかり考えていた気がする。また父は悪くない、運が悪かっただけだと母から言われ続けていた。
でも本当はあの女が全部悪かったのだ。彼女が父に好意を持たず、またおかしな真似をしなければ、あんな事件は起きなかっただろう。
手紙に記載されていたのは当時騒いだ大衆や私も知らなかった、父が事件を起こすに至る理由やその背景だった。逮捕されてから裁判が終わるまで報じられていたのは、父の部下だった由美に付き纏うストーカーを投げ飛ばし、その際誤って頭を打った相手が亡くなったというものだ。
しかしそこには裏の事情があった。父に投げられ死亡した江盛勝治はストーカーでなく、単なる昔の同級生だったのだ。父が投げ飛ばしたのは、彼に殴りかかられ咄嗟に身を守った末の不幸な結果だと書かれていた。
もちろん相手から攻撃を受けた点は裁判でも言及されていたけれど、その理由が違っていた。江盛は由美からしつこい上司がいるので、少し痛い目に合わせてくれと言っていたというのだ。
それなのにどうして彼がストーカー扱いされたのか。理由は彼女が父にそう伝えたからだという。だから守って欲しいと相談を受けたらしい。それを真に受け一度彼と会って話をしようと父が言った。それで話が食い違い、良い争いとなり事件が起こったというのが真相だと書かれていたのである。
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