第一章~⑪

 ただ須依が一旦会社を辞めると決めたのは、視力が低下した件だけが理由ではない。ある事件で特大のネタを掴んだが、会社の上層部により自分の意図と違う形で記事にされた事件があった。その時の怒りと遺恨がまだ心の奥底で燻っていたからこそ、退職する決意をしたのだ。

 独身で気ままな身分だった環境が、思い切った判断を促してくれたという側面もある。また社内外でも須依に同情的な上司や応援してくれる同僚、記者仲間達が少なからずいた点も大きかった。そのおかげで例え視力を失ったとしても、引き続きフリーの記者としてやっていける、やってやるという固い意志が持てたのだ。

 幸いこれまでの成果を買われ、東朝だけでなく他の会社からも仕事の依頼があった。売り込みもできる体制が整い、周囲の期待に応える仕事をしてきた為、これまでは何とかやっていけている。

 しかし現在依頼されている案件のように、実入りは悪くないけれど時間がかかるだけでなく、本意で無い方向に促されかねない取材は面白くない。そういう仕事ばかりやっていると、損得なしに身が震えるほど没頭できる事件を欲するのだ。

 今回がまさしくそうだった。須依の血が騒いでいる。的場達が睨んでいるように、この事件は怨恨ではなく、ある目的を持った愉快犯の可能性が高いのだろう。彼らのヒントがそれを示していた。

 そこを掘り下げれば真実にぶつかるはずだ。そうすれば、的場達への疑惑は晴れるに違いない。よって張り切らざるを得なかった。 

 とはいっても視覚障害者の須依が一人で調べ、または決定的瞬間を写真に収め記事を書くなど到底できない。そこで今回入手したネタを呼び水にし、いつも通り助っ人の力を借りることにした。

 記者クラブへと戻った須依に、目的の男が独特の足音をさせて近づき声をかけて来た。

「おい、どこに行っていた。あんまり一人でうろつくと、間違って変な所へ迷い込んじまうぞ。そんな真似を続けていたら、いつか出入り禁止になるので止めろと何度も注意したじゃないか」

「烏森さん、丁度良かった。少しお話を聞いていただけますか」

 その後は他の記者に気付かれない様、いいネタを手に入れたと簡単な手話で伝えた。

 須依は視力を失ってから、誰かに聞かれても困らない対策として、隠語の代わりにジェスチャーする方法を身に着けていたからだ。視覚障害者が手話を使うなど、普通は誰も思いつかないだろう。まさしくその盲点を突いた手だった。

 記者という仕事柄、他人に聞かれるとまずい会話をする必要に迫られる場面は多数ある。健常者同士なら目配せなどで人目が付かない場所に移動し、こそこそ話をしつつ相手の表情を読み取れば済む。けれど須依の場合はそう簡単にいかない。その為に隠語なども含め、色々な工夫が必要だった。だからこそ生まれた独自の方法なのだ。これはほんの一握りの、限られた仕事関係者としか通じない。 

 その一人である彼は気づいたようだ。よって須依に近づき、小声で話しだした。

「なんだ。今回の件か別件か」

「今回です。怨恨関係では、まだ何も掴めていませんよね」

「ああ、全くと言っていいほど情報は入ってこない。対象者が多く、警察関係者も疑われているせいだろう。マスコミに対してかなり警戒している」

「他記者の動きはどうですか」

「和尻より、米村の関係者を疑う奴らが圧倒的に多い。しかしこれといって目ぼしい人物はいないようだ。死亡推定時刻からして、アリバイを証明できた奴らはほとんどいないが、現場周辺だけでなくそいつらの住所近くの防犯カメラにも一切映っていないらしい」

「電車が動いていない時間帯なので、待ち伏せしていたとしても犯行後の移動も含めると、車かバイクかまたは自転車でしょうからね。被害者の住居近くに住む関係者はいなかったはずですし」

「車だとしても、この東京では至る所にカメラがある。夜中だろうが、必ずどこかで映っているはずだ。それが無いから絞り込めないのだろう」

 予想通りの答えが返って来た為、須依は頷きながら囁いた。

「そうでしょうね。ちょっと席を外しませんか」

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