第一章~⑨

「もしかして缶コーヒー一杯でも奢られると、まずい案件を抱えているのかしら。普段はサイバービルにいるはずのあなたが、警視庁の本部にいるなんて珍しいでしょ」

 サイバービルとは二〇一八年に住所などを公表しない、新しく設立された施設の通称名だ。そこには彼の所属する本部の他に、公安部サイバー攻撃対策センターなど警視庁の各部署や、警察庁の出先機関である東京都警察情報通信部等を加えた精鋭達が揃っている。 

 創設目的は急増・多様化しているサイバー犯罪に対応すべく、各部署の連携を強化する為で、捜査員が五百人以上いるらしい。

 近年、様々な犯罪にネットが関わるケースは多くなった。その為警視庁だけでなく、警察庁の中でもサイバー対策に力を入れたチームが、それぞれの部署で立ち上がった。しかしそれでは情報の共有化はもちろん、人材の質や技術の差なども各々で異なり、効率が悪い点が問題視されていた。

 そこで二〇二〇年東京オリンピック・パラリンピック開催を見据え、より横の連携を深める必要性から二〇一六年にサイバーセキュリティ対策本部が設立されたのである。それをさらに進化させ、部署を一か所へまとめ入居させた建物がサイバービルと呼ばれ始めた。 

 だがあくまで彼は冷静だった。

「そんなものはないよ。俺は中間管理職だ。さっきも言ったように会議やら報告やらと、本庁に呼ばれる事も多い。お役所勤めの悲しい定めだよ。今日もそれで来ていただけだ」

 そんなことは知っている。しかし文京区だろうと噂されるビルから、千代田区霞が関の本庁へわざわざ足を運んでいるからこそ、何か別件を抱えている公算が高いと睨んでいた。

 そこで探りを入れてみた。

「でも忙しいでしょ。最近はあらゆる事件にネットなどでのやり取りが絡んでくるから。ネット犯罪自体も増えているし」

「そうだな。海外からのハッキングは後を絶たない。ランサムウェアによる被害もそうだ。当初は個人ユーザーを狙ったバラマキ型が多かったが、徐々に特定企業をターゲットにし始めたから、身代金も高額化している」

 ランサムウェアとは、コンピュータに悪事を働くソフトやコードの総称、マルウェアの内の一つだ。パソコンなどのデバイスへ不正にアクセスし、何らかの害を及ぼすものの中でも悪質な実害を与え、近年世界的問題となっている。身代金を表す「ランサム」と「ソフトウェア」を繋げた造語で、年々攻撃が巧妙化しているという。その為に現状では対策が難しく、特に新型コロナウイルスの感染拡大以降は、在宅勤務やテレワークにおけるセキュリティの脆弱性を狙ったものなど、被害件数が増えていると聞いていた。

 しかし個人が対象ならせいぜい数万円程度の身代金だが、企業ともなれば数千万円から数億円単位に高額化する場合も少なくない。

「大変ね。今はあらゆる個人情報がデータ化されているし、身元を隠しやすい仮想・暗号通貨が普及した影響も大きいでしょ」

「ああ。支払った後に警察へ通報されても、犯人を捕まえられず泣き寝入りせざるを得ないケースは少なくない。全く腹立たしいよ」

「それに不正アクセスの狙いは、企業本体のシステムだけに限らないでしょ。防犯カメラがハッキングされて、情報が漏洩した事件だってあったよね」

 先程同様、苛立ちを隠そうともせず、彼は不機嫌な声で言った。

「あれはリスク管理意識が低いせいで起きることが多い。パスワードを変えず、初期設定のままにしている等杜撰ずさんな対応をしているから、隙を突かれるんだ」

 性質上、かなり強固なセキュリティを組んでいて簡単にハッキングは許さないという。だが正しく利用していなければ、素人でも簡単に不正アクセスが出来るそうだ。その一つがパスワードである。 

 例えばあるウェブサイトでは、世界各地に設定されている防犯カメラの映像を、リアルタイムで無制限に公開されている。これもパスワードの設定やアクセス制限が行われていないものばかりで、二〇二〇年には日本でも約千三百台が確認されたようだ。

 しかしここまで振った話題で、彼が動揺する気配は全く感じられない。つまり須依に探られたくない情報はそこに無いと察した。

 そこで角度を変え、突いてみた。

「そう。やっぱり忙しいのね。ところで話題は変わるけど、さっき的場さんとの話で五係を騒がしている例の事件は怨恨なんかじゃなく、愉快犯の線が濃厚らしいと聞いたけど佐々君はどう思っているの」

 警察自体を悩ましている件とはいえ、CS本部と関わり合いは少ないだろう。それでも彼がどこまで把握しているかを試したのだ。

 けれど簡単に引っ掛かりはしなかった。

「そうなのか。だとしたら愚かな論争を繰り広げるマスコミに、さっさとそう発表すればいい。そうすれば的場達が痛くもない腹を探られなくて済む。刑事部は動きが悪すぎる」

 本気でそう考えているらしく、舌打ちまでしていた。

「そうなのよ。少なくとも東朝新聞で、警察を攻撃する記事は書いていないから。ただ今の段階だと、あくまで怨恨かそうでない場合の両面で捜査しているとしか言えないでしょ。そこが歯がゆいの。だから怨恨じゃないと証明する裏付け記事を書いて、早く的場さん達にかけられた疑いを晴らせればいいんだけどね」

「的場は怨恨ではない根拠を、何だと言っていたんだ」

「何か掴んでいるらしいけど、まだ教えられないみたい。秘密の暴露となる証拠は、それほど多くないからでしょうね」

「須依はあいつとの会話で、そうした事実があると感じ取ったんだな。だったらそれを記事にしたらどうだ。そうすれば好き勝手に騒ぎ立てている奴らも、少しは黙るだろう」

「そうしたいけど、私は新聞記者だから。週刊誌なら“愉快犯による仕業か? 捜査員が語る裏事情”なんて憶測記事が書けるでしょうけどね。間違いない裏取りがなければ、掲載なんてできないわよ」

「そうだろうな」

 彼も分かってはいたらしくあっさり引き下がった。その為須依からさらに仕掛けてみた。

「佐々君はこの件で、何か聞いているんでしょ。だから私達が話しているところを見つけて、声をかけてきたんじゃないの」

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