第一章~④
誰が聞いているかどうか分からないからか、彼は小声で囁いた。その気遣いを察し、須依は慌てて告げた。
「ごめん。今、忙しいよね。的場さんはこれからどこへ行く予定だったの。トイレだったらお邪魔だよね」
「いえ、少し気分転換しようと、自販機でコーヒーを買って飲もうとしていただけです」
「そうなの。じゃあ、私もご一緒していいかな」
少し甘えた調子で話すと、明るい声で答えてくれた。
「もちろん、喜んで。ああ、ぼくが奢りますよ」
「ありがとう。ではお言葉に甘えて」
彼は慣れた手つきで須依の左腕の肘を掴んだ。それから自分の右肘に手をかけるよう誘導し、ゆっくりと左斜め前を歩く。彼は長年視覚障害者の面倒を看てきたからだろう。無駄のないスムーズな動作が板についている。
というのも生れた時から視覚障害を持ちながら、今は五人制サッカーとチームにも参加している
五人制サッカーとは、パラリンピックの正式種目にもなっている視覚障害者が行うスポーツである。弟の付き添いで仕事の休みと重なりたまたま来ていた的場は、同じチームに参加し始めたばかりの須依を見て驚いたという。彼も小学校から高校までサッカーをしていた経験があり、須依が女子サッカーの元ユース日本代表選手だと知っていたからだ。
須依の名前は、プロ野球の南海ホークスの大ファンだった父親が付けた。ミナミという響きは良かったけれど、幼い頃から南海と書くことに抵抗があった為、余り気に入ってはいない。しかもいい大人となってからは、キラキラネームのようで嫌いになったくらいだ。
生まれは大阪に近い和歌山県の北部だが、転勤族だった父の影響で昔から転校を繰り返し、その度に名前でよくからかわれた。南海が身売りし球団名がダイエーに代わってからは、特に酷かった記憶がある。二つ上の兄の名は
運動好きだった須依が、当時それほど盛んで無かったサッカーを始めたのも、父の野球好きに反抗していたからだろう。それにからかう野球男子から遠ざかるには、格好のスポーツだった。何故なら周りは野球を余り知らない、サッカー好きの男子ばかりいたからだ。
また須依は転勤族だったこともあり、小さい頃からなるべく苛められずに済むよう気を使い、人の機嫌の良さや悪さ、
転校という煩わしい行為を繰り返し、学校という小さな檻での生活を守る手立てから始めたサッカーだったが、須依は次第にのめり込み練習し続けていた。すると好きこそものの上手なれというが、小学校高学年頃からめきめきと上達した。それが中学の時に偶然父の都合でサッカーの盛んな静岡へ転校した為、地元のクラブチームに所属した。
そこから有望選手として目に留まるようになり、チームの推薦を受け日本代表のユースから声がかかるまでになったのだ。その後高校二年まで、ずっと日本代表のユースに参加していた。
当時は、後にW杯優勝へと導き国民栄誉賞を貰った某有名ストライカーが近い学年にいた。彼女は十五歳の時にユースを飛び越え、日本のA代表にまで選抜され話題となった頃である。そうした環境が影響したのか今と状況は大きく異なるものの、一部のメディアが彼女を取り上げる機会も多くなった。
おかげで女子サッカーがやや注目され、当時ユースにいた須依も澤に続く逸材で、さらに美少女選手としてほんの少しだけ騒がれた。よって社会人になってからもごく稀だが、当時ファンだったという人物がいて驚いた。その一人が的場である。
そこで声をかけられ、会話を交わすようになった。また須依がフリーの記者だと知り、仕事上でも多少関わり合う機会があった。そうしている内に、彼は好意を持ってくれたらしい。恐らく幼い頃から身近に視覚障害者がいた為、他の人のような偏見を持っていなかったからだろう。さらには元日本代表ユースの頃から密かに憧れていたと後に教えられた。
やがて思いが募ったからか、ある日呼び出され結婚を前提に付き合って欲しいと告白されたのだ。もちろん須依は驚いた。障害を負ってから、恋愛など自分には無縁だと諦めていたからでもある。それだけではない。健常者の頃に味わった傷がトラウマとして残っており、またその頃は既に三十半ばになっていた点も影響した。
彼とは真剣に話し合った。過去の恋愛の件を伝えただけでない。例え結婚しても高齢の為に子供は産み難いだろう。また生れても的場家か須依が持つ遺伝子により、盲目の子となる可能性は低くない。そうした子を産んで育てる等、自分にはとても無理だとも告げた。さらに的場の想いはどこか弟に対する感情と似て、同情心が含まれてはいないか。そう感じたと正直に告白した。
結果的にはお互い仕事が忙しくなった事情も重なり、付き合いも含め断った。諦めた彼は後に同じく警視庁に勤める
須依達は同じブラックの缶コーヒーを選択した。自販機近くには小さな丸テーブルがある。立ち飲み用の休憩スペースとなっている為そこに移動し、再び話を続けた。 廊下を歩く人の気配は時々感じたけれど、周囲に誰もいないと確信したからだ。
引き続き砕けた言葉を使った。
「だったらやはり怨恨じゃなく、単なる愉快犯の仕業かもしれないね。そうなると防犯カメラなどに映っていない限り、犯人まで辿り着くのは時間がかかるでしょう」
「そうですね。被害者の家は最寄り駅から、徒歩十分ほどの住宅地にあるアパートです。現場は駅から徒歩七、八分なので、自宅のすぐ近くでした。自宅と駅周辺の防犯カメラを集めて怪しい人物が映っていないか、犯行時刻前後の二時間は確認したんですけどね」
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