その8
ぱっちりと目が合って彼女は、ふと微笑みながらイスを立ち上がりテーブルに手を置いて向かいにいるローズへと手を伸ばした。
「また怖い顔してる。姉さんたっら、もう」
困ったようにそういう彼女の髪を春風が攫って美しくなびかせた。たしかに彼女に惚れたというのならクライヴは見る目があると思ったが、そんなライラの指先がとんとローズの眉間に触れて、茶目っ気のある笑顔が愛おしかった。
それからライラは突っ立ったまま、先程と同じようなことであるが、さらに核心的なことをローズに問いかけるのだった。
「なにか、凹むようなことでもあった? 話ぐらいは聞くよ」
ローズの方が姉で、彼女が妹でそういう風な問いかけをするのは姉のローズの役割のはずであるのに、大体の場合、幼いころからその役割は逆転しているが、ローズはローズで、兄のように幼いライラを物理的に守っていたので少し変わった姉妹の形をしているのだ。
いつもそうであったし、それにローズが結婚する前のいつもの家族である彼女だということに変わりはないのだと思うと、ローズの中で不倫相手は彼女ではないだろうという、気持ちが確信へと変わり、探りではなく相談が口をついて出る。
「実は……クライヴは他に大切な女性がいる様なの、……それもその、まったく私と違うタイプの……」
簡単に言うとそんな事態なのだ。また、彼女もエイミーやカーラと同じように政略結婚なのだから、不倫ぐらいは許してあげるべきだろうというのだと思ったが、ライラは驚いたように瞳をパチパチとして、それから、ぐっと顔をしかめてテーブルの上で拳を握るのだった。
「なにそれ……ありえない。姉さんをお嫁さんにしておいて……やっぱり……」
そのまま握った拳を震わせ、ガクッと俯き、地を這うような声で絞り出すように言うのだった。
「やっぱりあの男、碌でもないやつなんだ」
予想していた反応とまったく違うライラの声音にローズはどうしてか、おしとやかな彼女を怒らせてしまったと少し慌てて、その柔らかい女性の手を思わず包み込んで慌てて言う。
「ちょっと追いついてライラ。き、君ではないんだよね?」
それから思わず聞いた。今までの反応でまったく違うとはわかっていつつも、どうしても彼女のクライヴに対する行動が引っかかっていたので、とにかく聞いてしまおうということで口に出したのだった。
それを聞いてライラは今度はキョトンとして、「どういう事?」と聞き返してきた。くるくると変わる表情にローズは慌てつつもしっかりとイスに座り直すように勧めてそれから、ライラをこうして呼び出すまでのいきさつについて話をするのだった。
「つまり、不倫女に牽制されていて、その犯人を捜してるところで私を疑っていたって事?」
すっかり話をしてしまえばライラはすぐに理解してそれから、うーんとしばらく考え込んだ後にはぁ、と額を押さえて頭を抱えた、その仕草になにか心当たりがあったのだろうということはローズにもすぐにわかって、彼女の話を促すように見つめたのだった。
「疑われても仕方がないけど……まさか本当に不倫しているなんて……はぁ~、許せないあの男」
これまた絞り出すようにそういい、それからライラは、意を決したとばかりにローズにきちんと目を合わせて、彼女にわかるように話をするのだった。
「訂正しておくけど、私、クライヴ様の事をこれっぽっちだっていいと思っていないから」
高らかにそう宣言してからライラは続ける、その瞳に映っているのは目の前にいるローズだけであった。
「私は、まったく男性を支える為に育てられていない姉さんがあの男にいじめられてないか気になって来ていたの。だって、私、あの人のことまったく知らないのよ?それなのに急に弟が生まれて、私たちの為にウィルクス公爵家の後継ぎとして鍛錬を積んでいたのに、姉さんはとたんに厄介払いみたいに嫁にいかされて、そんなの……そんなのっ、心配するに決まっているじゃない!」
言われた言葉に今度はローズが驚く番だった。まさかそんな風に心配されているだなんて夢にも思っていなかったのだ。
それに、ローズは自分の母親にすら、貴方は強い子供なのだからどこでもやっていけると言われて嫁に出されたというのに、妹である彼女が自分の事を心配してくれているだなんて夢にも思っていなかった。
「でも、いくら話をしてみてもクライヴ様はどんなお方なのか掴めないし、姉さんの事をどう思ってるのかもぜんっぜん分からないし!」
「……」
「それでも、姉さんを私から奪ったんだもの、幸せにしてくれると信じていたのに……それなのに、許せない。クライヴ様」
恨み言のようにそう言うライラに、ローズはくすっと笑ってそれから、すとんと腑に落ちた。こんな風に心配されるようなか弱い人間だと思われていたというのは不覚ではあるが悪い気はしない。それどころか、妹の行動がなんだか嬉しくすら思えてしまう。
「……ありがとう、ライラ。君が妹で良かったよ」
「なに、突然。私はいま、姉の旦那の不倫を聞かされて、イライラしてるのにっ、一人だけ達観したみたいなこと言って。もうっ、あの時もそうだったんだから」
「あの時?」
「そうよ、あの時!」
彼女はイラつきをそのまま出すように乱暴に紅茶を飲んで、かしゃんと音を立ててティーカップを置いた後に”あの時”について口にした。
「姉さんが、弟が生まれて初めて屋敷に帰ってきたとき。私たちは、あの子に何かするかもって言われて、名前も教えてもらえずに近づくことも許されなかった時……そんなときでも姉さんは、私が心配したら、同じように言ってたの」
「君が妹でよかったって?」
「そう、そうよ。だから、私てっきり、姉さんには結婚したい相手が最初からいて、都合が良かったのかと思ったの」
初めて聞くあの頃の彼女の気持ちにローズは興味深く耳を傾けた。
「でも、カルヴァート公爵家からのいくらかの土地と引き換えに姉さんは売られたのだと知って、頭が冴えたわ。結婚したい相手がいたとかそんなことではなく、姉さんは強い人なのだって。それに、仲の悪くない男の人との婚約だと聞いていたのに、たまに姉さんの話に出てくるトリスタン様ではなくまったく知らない人だったのも衝撃的だった」
「……ああ。たしかに」
ローズは指摘されて納得した。それについてはローズの方に心当たりがあったのだ。
……だって、友人の事は家族に話をするけれども、ライバルの事なんて話さないだろう。
もしかしたら自分が負けるかもしれない相手だ。そんな相手とのエピソードなど滅多なことでは話はしない。だから妹のライラに取ってはとくに唐突に映ってしまったのかもしれない。
「だからここは、男性との関係にあまり免疫のない姉さんの代わりにこの男の事を見定めなければならないと思ったの……でも碌でもないやつね。不倫するなら正妻に嫌な思いをさせないのは当たり前でしょう、もう」
ライラはそんな風に言って、腕を組んであからさまに怒ったような態度をとった。
その言葉に、ローズは嫌な思いをしなくともクライヴには……と思ったけれども、どうにもその考えは、自分が持っていい事なのかはわからなくて口をつぐむ。それと、彼女は一つだけ思い違いをしている。
それについて、やっぱりローズはライラに話をするつもりはなかったが頭のなかだけで思いだした。それは弟が産まれたという手紙が届いてすぐの事だった。
家に戻って嫁入り先を探せ、パーティーに参加しろ、学園は卒業を待たずに退学する。そんなローズの気持ちなどまるで無視された無常な文字が並べられた手紙を受けてローズは、呆然とした。
自分はそれなりに強い精神を持っていると思っていたけれども、不安にならない理由は、考えることをあまりしないからなのだと気がついた。
自分のやってきたことなど無に帰す瞬間は急にやってくる。しかしローズはそれが来るとすら思っていなかったし対策も打っていなかった。それに、ローズはただの将来有望な子供であるというだけで、何かを変えられるだけの力はない事を初めて思い知った。
物理的な強さ以外にもたくさんの事柄が世の中にはあるのだと理解した。
それと同時に、ローズの目の前は真っ暗になって、女子寮から出る気も起きずに無為に数日間を過ごした。先のことなど見えなくて、このままどこかに飛び去ってしまいたいと思ったのに、どこにも行けずにただ停滞する日々は鉛を体につけられたかのように重たく苦しいものだった。
しかし、ある日、光明が差した。
それは、いままでライバルとして学園での四年間を共に過ごした戦友だった。彼は、女子寮に寮母を張り倒して入ってきて、ローズの部屋へと乗り込んで、珍しく何度か噛みながら、それでも毅然と言ったのだった。
『ラ、ライバルがそんなでは困るんだ!俺が娶ってやるから、君はただ、俺と競い合ってればいい』
と偉そうに。そうして実際にその後に手紙が届いた。学園卒業までは自由にしていいという内容の手紙で、実際問題確かに、ローズはクライヴに救われたのだった。
だから、やり遂げることができて、一応は騎士の称号も持っているのでローズに心残りはない。彼の為に家に入ることは、他の誰かに貰われるよりもずっといい。
そう思えて、ライラの前でも取り乱すことは無かったし、クライヴ以外の嫁になるというのは考えられないのだ。
しかしそんなことは今になって言うのも恥ずかしいし、ライラにとって格好いい姉でいられているのなら、その像をつぶすつもりもなくてローズは口を閉ざした。それから、不倫相手について考えを巡らせているとライラが不意に、顔を上げてそれから、ローズに言う。
「あ、そういえば、前にあった時にクライヴ様、変なことを私に聞いてきたのよ」
「……変なこと?」
思わず復唱して聞き返した。するとライラは、考えるように口元に手を当てて思い出しながら言うのだった。
「関係ないかもしれないけれど、変な質問だったから覚えてる。……確か……姉さんが絶対につけない香水の香りを聞かれたのよ」
「……それでなんて答えたの?」
「私は姉さんは香水なんかつけないって、正直そんなことも知らないわけないと思ったけれどあえて、それから、香りの強い花の香水なんかは特にって」
ライラの話を聞いて思いだす。たしかにあの時、香った香水は、強い花の香りがした。それにローズが絶対につけない香りとはどういう事だろうか。それを知ってわざわざ不倫相手にそれを送った?
それもまた変な話だろう。
その質問の意味が分かるだけの情報はなく、二人はあえなく今後にまた話をする約束をして別れるのだった。謎は深まるばかりだが、ローズはやっぱりあまり深く考えずに、不倫相手の容疑者である二人目に当たってみることにしようと早々に考えるのだった。
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