第60話 ホンモノとニセモノ
徳島県立近代美術館(徳島市)は12日、所蔵しているフランスの画家、ジャン・メッツァンジェ(1883~1956年)の油彩画「自転車乗り」(縦55センチ、横46センチ)に
このほかにも高知県立美術館(高知市)が所蔵するドイツの画家ハインリヒ・カンペンドンク作とされる油彩画「少女と白鳥」に、贋作の疑いがあるようで、描いたのは著名な贋作作家、ウォルフガング・ベルトラッキではないかと報道されています。
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松本清張の短編に「真贋の森」という作品があります。若い頃に読んだ小説で、正直、内容は覚えていないのですが、強く印象に残っています。絵の贋作をつくる物語です。浦沢直樹の『マスターキートン』に「瞳の中のハイランド」というエピソードがあるのですが、これも絵の贋作作家の話で、印象に残っています。なぜかわたしは贋作絵画に惹かれるようなのです。
ウォルフガング・ベルトラッキという人は、有名な画家の絵画を模写するのではなく、「新作」をでっちあげて売り付けています。Aという画家のタッチを習得して、自分の描いた絵をAの絵として高額で売り付けるわけ。もちろん、ベルトラッキが直接売ってるわけじゃなくて、いくつかの画商のような中間業者を挟んでコレクター(今回の場合は美術館)の手に渡るのでしょう。
ニュースの記事の中にあったのですが、手口が巧妙で専門家でも偽物かどうか簡単には分からないらしいです(!)
そこでわたしが持つ疑問が「ホンモノとニセモノってなに?」「絵の価値はだれが決めてるの?」ってことです。
もちろん、ピカソの絵はピカソが描いているから「ピカソの絵」なわけで、藤光がまねて描いたとしてもそれは偽物で、価値はゼロです。
ところが、藤光がまねて描いた絵が、権威ある画商の手を経、ピカソの未発表作として世に出回ったらどうでしょう。何百万円、何千万円もの価値がつくのではないでしょうか。
ニセモノに価値がつく――贋作が作られる所以ですね。
なぜ絵の贋作が作られるのか理由を考えると、人の趣味・嗜好に供せられるもの――これをここでは「創作物」と呼ぶことにしましょう――の客観的な価値は定め難いということが分かります。
だれがどう見たって良いと思われる絵であれば、その絵をだれが描いたかということは、価値判断の基準に含めないはずです。だって、絵そのものが良いんですからね。画家の個性は関係ありません。
ところが、(抽象的な)ピカソの絵のように、人によって絵の価値判断が分かれるような創作物の場合、客観的な価値を決めることができません。ある人にとっては名画である一方で、またある人にとっては落書き同然なのです。
わかりやすい例としてピカソを挙げましたが、一定程度の画力のある画家同士の絵について、こちらが上でこちらが下ですというふうにランク付けすることは非常に難しく、特に素人にとってその判断基準はわかりにくくなります。
人が個人としてはその創作物を愛でる限りは、客観的な価値などどうでもいいのですが、これを市場で取引するとなったらだれかが価値を決めない限り売り買いすることができません。そこで、取引のために便宜上つけた値札が、(本質的には無意味なのに)その創作物の価値として独り歩きしてしまうのです。
贋作が例外なく著名な作家によるものを偽装していることからもわかるように、便宜上つける値札に書き込まれる金額は、なにをどう描いたのかではなく、だれが描いたのかということによって決まるのです。作家の人生の一部が結晶化していると思えるから作品に価値があるといえる――ということなのでしょう。そうでなければ作家のタッチそっくりに描かれた絵に価値が付かないことが説明できませんからね。
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ただ、(これまで書いたことをひっくり返すようですが)、冒頭のウォルフガング・ベルトラッキの絵ですが……、そんなに有名な贋作作家の作品なら逆に値打ちが出てくると思うんです。ベルトラッキという人の物語がとても興味深いから。
絵の価値はそのものより、描いた人によるんです。徳島県立近代美術館も高知県立美術館も処分しないでとっておいたほうがいいですよ。それはきっと値打ちものの絵です。
ホンモノとニセモノってなんなんですかね?
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