第6話 100分de宗教論

 毎年、お正月にはNHKEテレで「100分de名著」の特番が放送されます。今年は、2日に『100分de宗教論』が放送されました。


 人と人が争う背景に宗教が横たわっているというのはよくある話です。イスラエルによるガザ地区での戦争や、安倍元首相殺害事件に端を発する宗教二世問題など、いまわたしたちが宗教について考えるというのは、無意味なことじゃないなと感じながら、興味深く視聴しました。


 この国では宗教――なかでも伝統的な仏教以外の宗教について、声高に語ることは憚られるような空気がありますね。特に、新興宗教について語ることは、半ばタブーとなっているように感じます。オウム真理教や統一教会には「汚れた教団」のイメージがついて回りますし、普通の人なら宗教教団とは関わらないという思い込みもまかり通っていると感じます。


 その一方で、数えきれない人数の日本人がお正月には初詣に繰り出し、お盆には墓参りを欠かさないことから分かるように、この国で宗教と無縁に生きている人など、ほんのひと握りしかいないはずなのです。でも、宗教のことは避けて考えようとしない。不思議なことです。


 番組では、特定の宗教教団について言及することはありませんし、ましてや宗教の良し悪しについて論じる内容でもありませんでした。そういう意味では、結論のないモヤっとした感覚の残る番組構成だったのですが、そこにこそ宗教の本質が表れているなあと藤光は妙に感心したのでした。


 宗教というものは、現実には合理的な解決が図れなかったり、善悪の区別がつかなかったり、因果関係を見つけることが難しかったりする、どうにもモヤッとして居心地の悪い事態に、一定の答えを示してくれる仕組み・装置です。


 番組の中では「認知的不協和」について言及されます。人が互いに矛盾するふたつの事象を認知したときに感じる不快感やストレスを指して使う言葉ですが、宗教はこの認知的不協和を解消するため、人が編み出した方便という側面があります。


 たとえば、「家族とはいつも一緒にいるものだ」という認知と、「事故にあって家族が死んでしまった」という認知は、互いに矛盾するので、こうした事態に直面した人は強いストレスを感じることになります。


 人の死というような、人間の手では回復できない現象に原因がある認知的不協和を解消するのには、長い時間がかかるし、中にはそれに耐えられない人も出てくる。そういうときには、超自然あるいは超科学な理屈をもって人の死を説明してくれたり、行動の指針を示してくれる宗教が、家族を亡くした人たちを支えてくれるわけです。


 人が知恵をもって地球上に現れた瞬間から、人は互いに矛盾するできごとの中で我が身の振り方に迷い、答えの出せない問題に悩んできたと思うんですよ。そしてその間、ずっと宗教あるいは宗教的な心の安定装置は、人と共に存在してきたんだろうなと納得しました。そして、どうせ離れなれないのなら、うまく付き合っていくことを考えないといけないなと思ったのでした。


 今回はオチのない話ですみませんでした〜。


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