第5話 男と女は違うんだよ

 前回からのつづきです。

 ここからは、映画『かぐや姫の物語』について書いています。



『かぐや姫の物語』の主人公は、悪女とは正反対の無垢な赤ん坊として映画に登場します。ただ、非常に愛らしく美しい赤ん坊であったので、竹林で赤ん坊を見つけたおじいさん(讃岐造さぬきのみやつこ)は「この美しさに釣り合う幸せをこの赤ん坊に授けてあげたい」という欲心を抱きます。


 のひのびと美しく成長し、山の子供たちから「竹の子」と呼ばれるようになった赤ん坊は、自分の意思とは関係なく、讃岐造によって山の子供たちから引き離され、都で「高貴な女性」として振る舞うよう教育を受けるようになります。竹の子が幸せを手に入れるためにそれが必要だと讃岐造が考えたからです。


 都で高貴な女性としての立ち居振る舞いを身につける頃、一人前の女性として「なよ竹のかぐや姫」という名を与えられた竹の子は、非常に美しいというかぐや姫の噂を聞きつけて集まった、自分の成人儀式に押しかけた人たちが、竹の子と讃岐造を侮辱する様子に、ふと自身が抱える「罪」に気づいて愕然するのです。


 ――自分は、みずから望んだわけではないのに、美しく生まれついてしまったというだけで、周囲の人たちに迷惑をかけたり、不幸にしてしまっているのではないか? 現に自分はいつまでも山里で暮らしていたかったのに都に連れてこられ、こんな不愉快な思いを強いられている――


 そして、この映画でもっとも印象的なシーンである、怒りを爆発させたかぐや姫が山里へ疾走する場面へと続くのですが……。


 藤光は、『かぐや姫の物語』をここまで観て、この映画が、女性が女性である、ただそれだけを理由に抱え込む罪と、そのことに戸惑い、傷つき、乗り越えようとする女性の物語なんじゃないかと感じたんです。


 個人差はあるけれど、女性ってどうしようもなく男性を惹きつける存在じゃないですか。成人を迎える頃の女性なんて特にそうですよね。強く男を惹きつけてしまう。かぐや姫のように望むと望まぬとに関わらず。


 実際に、惹きつけているつもりがない男から言い寄られたり、性被害を受けたりする女性はいると思う。そのために自身の女性性を疎ましく感じる人もいる。女性であるということは、彼女たちにとって危険で不安なことなのだ。女性であることそれ自体が理不尽なことなのです。


 だから、かぐや姫は屋敷を抜けて駆け出したんです。女性性の象徴である着物を脱ぎ捨てて、髪を振り乱して怒ったんです。かぐや姫ではなく竹の子に戻りたくて山へ向かったんです。でも、それは無理だったんですけど。


 ささやかな抵抗として、かぐや姫は、自分が自分らしくあるために、自分の美しさに惹かれて近づいてくる男たちを避けただけです。公達や帝がつれなくされ、ひどい目に遭ってしまうのは、かぐや姫にとってみれば仕方がないこと。だって、誘ってもいないのに、言い寄ってくるのは男の方なんですからね。


 女性は女性であるだけで罪深いんです。


 何者をして、自分が自分らしくあることを妨げることができるでしょう? その気になれば、そんな者はいないのです。貴族であれ、帝であれ。そのことを描いたのが『竹取物語』であり『かぐや姫の物語』なのだとわたしは思います。



 ここからエッセイの内容は、前回と繋がるのですが――これって、高畑勲監督が女性について「自分のことが好きで嫌い」であり、かつ「男のことも好きで嫌い」っていう存在なんだって、これらの間をぐるぐると考え悩んでる人たちなんだって、宮崎駿監督に手本を見せてあげた映画だと考えると面白いなと思ったわけ。女って単純じゃないんだぞと。


 男はね。自分が好きで女が好きですよ。自分のこと大好きで、そのことで悩まないの。(爆笑)


 わたしも『かぐや姫の物語』を観て勉強になりました!

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