最低の人生の最高の終わり

徳﨑文音

最低の人生の最高の終わり

薄暗い部屋の中で目覚めて、枕もとのタバコに手を伸ばす。タバコに手をかけながら体を左に向けると、明らみ始めた外の色がカーテンに透けて見えた。俺たちみたいなあぶれ者の時間が終わり、人が人らしく過ごす時間が始まる。


ひんやりとした床に足を下ろして五歩。ガラガラと音を立てれば光のある普通の世界だ。太陽は上がりきっていないし、真正面にあるわけでもないのに、眩しさに目がくらむ。

既に温まり始めたベランダの床に足を下ろして、空を見上げれば四角い空は今日も青い。振り返って、俺の居場所とこの世界を隔てるように青々と茂るゴーヤに水をやる。このベランダはプランターや植木鉢で溢れている。道から見上げれば、俺のような人間の住んでいる部屋には見えないだろう。


ジッポを拾い、カシャ、シュポ、と音を立てて、持ってきたマルボロに火を点ける。深く深く、息を吸って、フッと一息吐いた。


ベランダの柵に肘を置いて見下ろせば、普通の世界が広がっている。この時間は仕事であり、俺の趣味の時間でもある。

行きかう人々を眺めながら、今の自分では身を置くことのできない、日の当たる世界に思いを馳せた。見下ろした道路の向かい側。数えきれない窓が並ぶ十五階建てのビルは一つの会社の持ちビルではなく、いくつかの企業がひしめき合っている。それもほとんどが上場企業だ。


梅雨が明けた空は乾いて、太陽はジリジリと眼下のアスファルトも温めている。あと二時間もすれば、立っているだけで足が焦げそうなほど熱くなるだろう。季節の変わり目を示すように行き交う人の服装もスーツではない人々が増えている。もしも俺が普通の会社勤めをしたら、どんな姿であそこを歩くだろうか。


キッチリとした人柄の分かる服装をした何人かが足早に、寝癖のついたままの何人かは眠そうにダラダラと、何人かは爽やかに挨拶を交わしながらビルに吸い込まれていく。俺はただただ、同じ時間に同じ人が、同じように動く様子を眺めている。

もしも自分があの場所に立てるならと想像しながら息を吸い込み、その想像は吐き出した煙と一緒に消えて行った。たった数十メートルの距離が隔てる物は大きい。


何人かを仕事として観察しつつ、それとは別に自然と目を奪われる存在がいる。全く隙の無さそうな美しい人。黒髪をきっちりとまとめ、皴のない洋服に伸びた背筋。ヒールが有るのに響かない靴音と柔らかな笑顔で気遣いの言葉を足して紡がれる挨拶の声。若く見えるのに、役職者のような落ち着いた態度のあの人は、自分とは全く逆の存在だ。

最初は歩く姿勢の良さに感心した。明るい世界を堂々と歩く姿が羨ましかった。ある日たまたま見上げてきたあの人と視線が合って、こんな俺にも微笑んで会釈してくれた事に驚いた。それは三年間で一回きりだけど。


気付かれたらお互い支障があるので、それからどんどんとベランダの植物を増やしたし、首は正面のまま、視線だけで下を観察するようになった。


建物に入っていくあの人を見送ってから、振り返り、ガラス窓に映る自分の姿を見る。短めの金髪に無精ひげ。ヨレヨレのTシャツはいかにもだらしない。縦にも横にも大柄な体格が近寄りがたい雰囲気を作っている。煙草を咥えた口元は歪み、鋭い目つきは、人によっては恐怖心を感じるかもしれない。

いや、表情を緩めたら俺も「普通の人」に見えるのではないか?

咥えていた煙草を床に投げ捨て、踏み消しながらガラス窓に向かって笑いかけてみたが、いびつな笑顔は一層恐ろしくなった。


「うわぁ。何してんの?」


タイミング悪く玄関に入ってきた、ユウヘイに見られて気まずくなる。手元にあった、ゴーヤを千切って部屋に戻った。


「ゴーヤの収穫。ほら、お前も食うだろう?」


部屋に戻り、ガラスとカーテンも閉めてから、鮮やかな緑色のトゲトゲが立派なゴーヤを差し出して、もう一度笑いかけてみた。俺の中では最高の笑顔のつもりだが、ものすごく顔を顰められてしまった。

顔を顰めてもユウヘイは善良で純粋な人間に見える。サラサラとした黒髪のユウヘイの頭の天辺がちょうど俺の目線くらい。男性の標準的な身長だが細身で手足が長い。小さめの顔に黒目がちなクリッとした瞳と、よく動く口をもっている。こんな見た目で、怒りっぽくて手も足も早いから難儀なものだと思う。


俺とユウヘイは幼稚園の頃からの付き合いで、幼稚園の頃はよく玩具を投げつけられてけがをした。小学生の低学年の頃は、ユウヘイがキレる直前に人の居ない場所に連れて行くのが俺の役目だった。気が付いたらなぜかその立場が逆転していて、中学の卒業式は二人とも隔離施設に入れられていて出席できなかった。


ユウヘイは「うへぇっ」と言いながら、俺が差し出したゴーヤを押しのけて台所へ行き、勝手に冷蔵庫を開けてカフェオレを飲み始めた。俺はブラックの方が旨いと思うのだが、ユウヘイは苦いのが嫌いらしい。いつも甘いカフェオレを口にしている。


「それで?こんな早朝からわざわざカフェオレを飲みに来たのか?」


今の俺とユウヘイの関係はビジネスパートナーだ。

俺たちのしてることを、世間ではビジネスと言わないかもしれないが、これで生活を立てているのだから、俺たちにとってはビジネスだ。決して早朝から顔を合わせる程、仲の良いただの友人な訳ではない。


「そろそろ次の仕事かなと思って。どう?」


「目星はついてる。そうだな、明後日くらいには確定させておく」


 ユウヘイに伝えた明後日という期日に何か根拠がある訳ではない。漠然とした勘だった。

何となく先週末からビルに出勤する時間帯の変わった人間が何人か居たのと、そのうちの一人に冷ややかな視線が集まっていたのを確認していた。


次のお客は、頭の前方が薄くなり始めていて、お腹もタプタプという音が聞こえそうな揺れ具合の、五十手前の役職者。左手には指輪がある。普段の行動からすると、セクハラで訴えられたのだろう。明日は噂話の確認をして見極めよう。


ビルに囲まれた細い路地の間は案外声が響く。風向きと交通量によっては、挨拶ついでの小声の雑談を聞くこともできるのが、うちのベランダだった。


翌日もいつものように普通の朝を眺めた。同じように人々がビルに吸い込まれていく。情報源の第一陣辺りのタイミングで、運悪く目の前の道をトラックが横切って行った。今は気怠げな人の多い時間で、あと五分くらいで、情報源第二陣の時間帯だ。


毎日見ているから、少し気を抜いていてもすぐに違和感として気付ける。その違和感で仕事の目星や段取りを付ける事もあるが、今日の違和感は仕事には関係ないものだ。


いつもキッチリしているあの人の髪の毛が、フワリと風に靡いた。暑くなったから髪を切ったのかと思ったけれど、それだけじゃない。化粧を変えたのか?いや表情が、瞳の輝きが違う。何があったのだろう?いつもよりノッソリ歩いて、それから大きく一息吐いてからビルに入っていく様子を見て、物凄く嫌な予感がした。

毎日眺めているからこそ知っている。あの歩き方、あの表情は危険だ。トラブルに遭っていて付け入る隙があると見做して俺らのお客さんにする。そういう類の表情や動作だった。


何かあの人の周りで起きているのかもしれない。女性が髪を切るとしたら、恋愛関係か?だけど、違う気がする。俺の勘があの人の悩みは恋愛事じゃないと囁く。


吸いかけの煙草を投げ捨てて、フラフラと部屋に戻る。ベランダに出る窓を閉めたら、ドンッと大きな音がした。考え事をしながら動くとつい力が入りすぎる。


「ヤバいっす。色々まずいっす」


「あぁ、まずそうだな」


ベッドに腰かけると、さっき見たあの人の表情が鮮明に浮かんで、記憶の中の人物と重なった。手遅れになる前に何とかしなければ。自分に出来ることなんて何もない。記憶と感情がぐるぐると渦巻いて、思考を沈めていく。

沈む思考の中で、落ち込んだあの人の顔が朧気な記憶の母親と重なって、俺の気持ちを更に沈める。

あれから二十年以上経ってる。あの人は俺の母親じゃない。だけど一度浮かんだイメージは振り払っても、振り払っても、俺の脳から離れなくなった。


俺はいてもたってもいられなくなって車に乗り込んだ。どこに行って何かが変わる訳じゃないけど、ただ、じっとしていられなかった。

このおかしなイメージを振り払うには、スピードが必要だと思った。車に乗って景色を置き去りにすれば、記憶の人物もあの人のイメージも俺に憑いてこないはずだ。

今までだってそうしてきた。原付で風を浴びたり、車で景色を流したり、そうやって母親の記憶を振り落としてきた。父から助けられなかったという罪悪感に蓋をしてきた。


車を走らせる。大通りに出て、ひたすらまっすぐに。窓を開けて、風に吹かれる。信号で停車する事が煩わしく感じられて、混んでない道、信号の少ない道を選べば自然と西へと進んでいった。


色んな事を思いながら、車を走らせているうちに、左側に波のうねる海が広がり、前方には分厚い灰色の雲が浮かんで太陽を隠していた。朝はあんなに晴れていたのにと、見つけた青色看板の文字を見てギョッとした。随分遠くまで来てしまったみたいだ。落ち着くまでにこんなに距離が必要になったのはいつぶりだろう。


腹が減ったような気がして時計を見れば、昼を回っている。ちょうど左前方にコンビニも見える。一旦止まって整理しよう。

生温い潮風がジメジメと纏わりつき、見上げれば雨を溢す寸前の濃い灰色の雲が見渡す限り広がっている。景色の色がくすんで見えるのはあの雲のせいだろうか。

缶コーヒーとサンドウィッチを急いで買って、ササッと車に戻る。


もう一度車を走らせると、バタバタと騒がしい風が窓から入って俺の頬を叩く。全然痛みなんて無いのに、子供の頃ユウヘイに殴られた記憶が浮かんできて思わず笑った。今日は随分と昔の事ばかり思い出す。


海沿いの人気の少ない場所を選んで車を停めた。車から降りて堤防に腰掛け、海を眺めながらサンドウィッチを食べる。さっきの風が雲を飛ばしたのか、気が付けば空の雲は薄く、白くなり、海の波は穏やかになっている。風の湿気は増して肌はベタベタするが。

揺れる陽炎を眺めながら、マルボロの煙を燻らせる。

あの人のことを考えて、もし俺にあの人を助けるチャンスが回ってくるのなら、風と海に頼ろうと決めた。そんな機会は来るはずもないけれど。

あの人の事の考えが落ち着いたら、なぜかユウヘイの顔が心に浮かんできた。そういえば、アイツ今朝も家に来てた気がする。

気がつくと空の雲はなくなって、海も朱色に染まり始めていた。


来た道ではなく高速道路で帰れば、遠い様な気がした距離も一瞬だった。それでも空は紺色に染まり、家の前の道も向かいの建物も人気がなくなっている時間だ。今朝の事はユウヘイに明日謝ろう。


マンションの駐車場に停めて、車を降りた所で五人の男に囲まれた。見覚えはある。俺の上司と、俺とは別グループの人間だ。


「逃げてたわけじゃないんか?」


背中側は鍵まで閉めた車。左右はおれと同じくらいのガタイの男。前には中肉中背が三人。

逃げようとは思ってないけど、逃げ道はなさそうだ。昼間、風に殴られたのとは比較にならない痛みを覚悟すると父親の顔と怒声を思い出した。本当に今日は随分と昔の事ばかり思い出す。


「落とし前はキッチリしてもらわんとなぁ」


正面から聞こえたのは、記憶の中で聞こえた父親の声とは全く違う、大きくはないのにしっかり響く声だ。

なんだかよく分からないうちに投げ飛ばされた。飛んだ先には別の男がいて、蹴りつけられる。それからまた胸倉を掴んで投げ飛ばされを繰り返す。五対一は卑怯だろうと思うと同時に、過去の記憶が断片的によぎっていく。

何度か殴られ蹴られしているうちに、遠くのほうでサイレンの音が鳴り、男たちは舌打ちをしながら、立ち去って行った。


ぼんやりと星の見えない夜空を眺めていると、コツコツコツコツと女性の足音が近付いてきた。俺も逃げないとまずいかなと起き上がる。痛いけれど、全部打撲だろうなと思う程度の痛みだ。手加減はされてたのか。


「大丈夫ですか?」


立ち上がろうとした瞬間に声をかけられた。屈んで俺の顔を覗き込む瞳に吸い込まれそうになる。肩のあたりで揺れる髪の毛と、その内側で光るイヤリングに見覚えが有って、思わず言葉を失ってしまった。


「もしかして、警察は却ってまずい?ちょっと待っててくださいね」


口元に手を当てて首を傾げた女性は、サイレンの鳴ってる方に出て行って、大きく手を振ると、パトカーを止めた。それからペコペコと頭を下げて、しばらく何かを話すとパトカーが引き返していく。


本当は立ち去るべきだと解っているのに、体は部屋まで歩いて問題なく戻れる筈なのに、俺はおとなしく言うことを聞いてじっとそこに座っていた。真っ直ぐに見つめられた視線を、俺は良い様に解釈する事にした。怯えられていないのなら、俺でもこの人を助けられる。


「警察には帰ってもらいましたけど、怪我のほうは大丈夫ですか?」


「貴女こそ大丈夫ですか?何か辛いことがあったんでしょう?」


目の前の女性は立ち止まって、目を見開いて、それから笑った。座ったままの俺はその姿を見上げていたから、笑った瞬間夜空に星が瞬いた様に見えた。


「えー?愚痴でも聞いてくれるんですか?」


ふふっと笑いながら、おどけた口調で聞き返される。柔らかい真綿のような声が俺を包んで、現実感を無くしていく。非日常に引き込まれたような、今まで渇望していた「普通」の世界を生きている人になったような感覚。


「聞くだけで貴女が元気になるのならいくらでも聞きます。だから、俺と海に行きましょう?」


自分で言っておきながら、なんて無茶苦茶な事を言うんだろうと思った。どうみても怪しいことこの上ない人間が、唐突に夜中に海に誘うなんて。断られる以外の選択肢が見当たらない。


「海で愚痴を聞いてくれるんですか?それはいつでも良いんですか?」


いつもの、ベランダから見てる穏やかな笑顔で俺をじっと見つめている。言われた言葉を心の中で三回復唱して、俺の知る言葉の範囲では断られていないと、やっと理解した。


「もちろん、いつでも!!いまから明日の朝日を目指してもいいです!」


「明日、急に仕事休んだりできませんよ」


その綺麗な人は、俺みたいな人間と何故かニコニコと話してくれて、次の日曜日に一緒に出掛ける約束をしてくれた。


日曜日までの三日間、俺はいつも通りに過ごした。彼女もいつも通りの様子で目の前の道を歩いて、ビルに吸い込まれていく。あの日の様子は俺の勘違いだったのかと思うほど、穏やかな様子に見える。


日曜の朝、いつもより早起きした俺は、日が昇る前にベランダに出てゴーヤに水をやる。特に外を見る必要も無いのに、ぼんやりと人のいない道路を眺めていると、日が射し始めた。あの人は本当に来るだろうか。


あの人はいつもの時間に来た。当たり前だけどその装いや佇まいはいつも通りではない。綿のTシャツにふんわりとしたロングスカート。水色のカーディガンを肩から斜めに掛けている。

俺はなんて声をかけたら良いのか解らなくて、とりあえず助手席のドアを開けた。まるで拐うみたいだと思ったけれど、なぜかとても喜んでくれた。


先日と同じように西へと向かうけれど、日曜早朝の国道は比べ物にならないほど空いていて、少しでも長く一緒に過ごしたい俺を嘲笑うかの様だった。

車に乗ってすぐに名前を教えてくれたカエさんは、俺の好きなブラックの缶コーヒーを蓋を開けて渡してくれた。なんでコレを選んでくれたんだろう。


カエさんはミルクティーの缶を手でくるんでる。その手元が小動物みたいで可愛らしい。こんなアスファルトだらけの灰色の景色よりも、青い海の、青い空の自然の景色が似合いそうな雰囲気に見える。


つい先日同じ道を通った筈なのに、全く違う景色に見えた。カエさん越しに見える助手席の向こう側に広がる海は、鮮やかな青に煌めき、空に浮かぶ雲も白く輝いて見える。窓から吹き込む潮風さえ軽く爽やかに感じられる。エンジン音も、整ってないアスファルトがもたらす振動も心地良い。


見たこともない美しい景色に、カエさんの柔らかい声が伝える優しい言葉。憧れていた日の当たる世界に自分が居る、そんな気分になっていく。まるで生まれ変わった様な気分になるが、ほんの一時の幻想だと戒めなければ、間違いを起こしそうだ。


「私の名前、漢字で書くと、中華の華に英語の英なんですよ。国際的な人になりますようにって父がつけたんですけどね、私、外国語はサッパリなんです。勉強しようとも思わなくて」


「期待をされても……ですね」


「そう!まぁ、うちの親は早々に諦めてくれたから良いんですけどね。親の期待が重すぎると大変そうですよね」


まるで俺の事を見透かす様な言葉に思わずドキリとしたが、カエさんの表情は何も変わらず、海風に柔らかな黒髪を靡かせていた。

なかなか話題が出せない、相槌すら上手く返せない俺を気遣ってくれているのか、コロコロと様々な話題を転換させながら、途切れる事なく話してくれる。けれど、どれも思い出とか笑い話とかで、カエさんの悩みも愚痴も出てこない。

運転中の人間相手じゃ真剣な話はしにくいのか、やっぱり俺なんかに悩みを話してもと思っているのか分からない。上手く聞き出せる話術を持ってない事をこんなに悔しく感じるとは思わなかった。


昼を少し過ぎた頃、海沿いの通りにテラス席のあるカフェを見つけた。あの店でランチはどうかと誘えば、話題の店だと教えてくれた。カエさんは弾むような足取りで店に入って、テラス席を希望したけど、俺をチラリと見た男の店員に、店の一番奥の席を案内された。


「なんかすみません」


「えっ?」


「一緒に来たのが、俺じゃなきゃテラス席に案内してもらえたと思うんです」


カエさんは目をパチパチと瞬かせて、何も言わずにニッコリとメニューを広げた。席の事はもう気にしないという意味の行動に見える。今までちゃんと人とコミュニケーションを取らなかった俺の解釈なんて宛にならないけれど。


カエさんはハンバーグランチとフルーツパフェを頼んでいたが、俺はオムライスだけで十分だと思った。ランチにオプションでミニパフェも付けれたけれど、別で普通サイズのパフェを頼んだ。


ランチの食べっぷりは見ていて気持ち良かった。つい見惚れてしまうほどに。食べながら会話もしてるのに、口に運ぶタイミングと話すタイミングのバランスが良くて心地よい時間を過ごせている。

そして食後にパフェを見たカエさんは、満面の笑みを浮かべた。


「ふふっ。ちゃんと写真通り、本物のパフェですねぇ」


デザートを前にしたカエさんは、細長いスプーンを手に笑ってる。そんな表情もするのか。俺の手のひらを立てたくらいの高さのグラスにスイーツの層が重なって、天辺はソフトクリームがクルリと立っている。


「本物?」


「ほら、最近のパフェってアイスを詰め合わせて胡麻化してるのが多いじゃないですか?でもこのパフェ、ちゃんと色んなスイーツの詰め合わせになってるんですよ。フルーツの種類も多いし!」


確かにグラスから透けて見えるだけでも、サクサクしてそうな細かい焼き菓子や、プリン、イチゴアイス、数種類の果物、チョコレートソースと多様だ。

食べ方を間違えれば、崩れ落ちそうなパフェを器用にパクパクと幸せそうに食べるカエさんを見ていると、こちらまで幸せな気持ちになる。じっと見ていたら、物欲しげな顔になっていたのか、一口どうぞとチョコレートソースのかかったイチゴを差し出された。その一口だけ頂いて、後は俺の事など気にせず食べてと言った。


カフェを出た所でカエさんから少し歩こうと誘われれば、断る理由なんてない。

いつもベランダから眺めているあの人ではない、自然体のカエさんが俺の左斜め前を歩いている。柔らかなリネンのスカートが海風に靡いて、白い砂をスニーカーで踏みしめる、少女のような姿。いつものパリッとアイロンの効いたスーツ姿自体が、カエさんにとっては無理をしている姿なのではないかと思ってしまう。


「カエさん。何か悩み事、仕事で困ってる事とかあります?」


「えっ?」


「何か無理してるように見えて。……その窮屈な思いとかしてませんか?」


「うーん。無理をしてるつもりはないけど、窮屈、と言えばそうかもしれない」


カエさんは屈んで小さな白い貝殻を拾って振り向いた。いつも眺めてるしっかり者のあの人とも、さっきまでの元気で明るいカエさんとも違う、少し困ったような表情。俺以外にもこの表情と対面している人はいるのだろうか。心配と優越感と嫉妬が入り乱れる。


「今年の新卒の子が、私をパワハラだって人事に訴えたらしくてね、来月地方の支社に移動になるの。確かにここ数年、私の部下になった子の離職率が高かったらしくて。今までのやり方じゃ時代に合わないっていうけどさ」


会社勤めをしたことがない俺には正直よく分からない。ザザッと波が砂を陸に押し上げる音がやけに大きく聞こえる。シュワシュワと引く波音と一緒に、強い風が吹いた。潮風に頬を叩かれてまた、ユウヘイの顔が浮かぶ。俺はユウヘイにそんな熱心に何かを教えたことなんてない。


「カエさんは本当に仕事が好きなんですね?仕事が好きじゃなかったら、真剣にもならないし、真剣じゃなきゃ後輩にも適当になるから、パワハラなんて言われる事も起きないです」


「同じような経験が?」


「いえ、俺は真逆の方です。俺は後輩が失敗して泣きついてくるまで放ったらかして、後で痛い目をみるんですよ。俺は上手くやる方法を知らないから、教えられない。でもカエさんは違う。きっとカエさんは仕事が好きで、どんどん成果を上げてるから、上手くいく方法を知ってるから、失敗しない様に教えてあげたいんですよね?」


ふふっ、とカエさんが笑って、纏う雰囲気が変わった。俺には眩しすぎるくらいの、いつも眺めてるあの雰囲気に。


「何かコツを、育てるコツをご存じですよね?教えてくれませんか?」


「えっ?俺、人を育てるような仕事なんてしたことないですよ」


「えー?人を育てた事なくても、多分育成って物に長けてますよ。だって、ほら、すごく立派な美味しそうなゴーヤが実を付けてるじゃないですか?」


「えっ?見てたんですか?」


「毎日、同じ時間に水やりをするのとか、地味に大変ですよね」


「ははっ。そうですか。人に当てはまるかは分かりませんが、ゴーヤに対する方針ならあります。自由にさせるんですよ。好きにさせた蔓ほど色と味の濃い実をつけるんです」


ゴーヤの話をしながら海岸の散策をする。少しずつ距離が近くなって、歩いているうちに手が触れそうになったけど、ギリギリの距離を保って夕方まで過ごした。


車を駐車場に停めて、俺の家の前、カエさんの会社の前の道で一緒に空を見上げた。いつもより星がハッキリ見える気がするのは、気持ちの問題だろうか。


「今日は、ありがとうございます。すごく楽しくて、時間が足りないくらいですね」


「俺も、人生で一番幸せな一日だった」


「明日が、天曜日とかになれば良いのに」


 カエさんから不思議な言葉が出てきた。意味を問えば、少し低い所にあるカエさんの瞳が俺を映した。真っ直ぐに見つめ合えるこの時間が名残惜しい。


「一週間の誰も知らない曜日。仕事も煩わしい事もない二人だけの時間で異世界みたいな物、ですかね?」


二人だけの時間に拐ってしまいたいけれど、今日限りの縁にしなければ。本当はカエさんは俺なんかと関わっちゃいけない。明日には普通の日常に戻っていくんだ。そうして、好きなことを伸び伸びとしていて欲しい。眩しい太陽のような笑顔を守るのは俺じゃないんだろう。


「こういうのは、これくらいの名残惜しさが丁度良いんです。今日は日曜日で、明日は月曜日。夢を見るのは日曜日だけにしないと。この世を生きられない」


一歩後ろに下がって伝えれば、カエさんはいつも見ている様な雰囲気になった。優しくて、しっかり者な仕事のデキル雰囲気。俺が、一目惚れをした三年前の面影が重なる。


「俺は何もできないけど、気持ちは応援してます。いつでも、どこからでも貴女を応援しています」


手を振ってカエさんを見送った。カエさんが角を曲がって、見えなくなると、後ろから何人もの足音が聞こえてきた。忙しなく乱雑で、荒い靴音。カエさんを見送った後で良かった。


振り向いて俺を囲む男たちと視線を交わす。それから正面で震えてるユウヘイを見た。後ろの男がユウヘイの背中を叩くと、俺が何を言う間も無く、乾いた音が一つ響く。胸が熱くなり、力が抜けていく。見上げた四角い夜空から星の煌めきが消えていく。


最後にこんな優しい日を過ごせるとは思ってなかった。

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最低の人生の最高の終わり 徳﨑文音 @tokuzaki_2309

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