出来事

 ある日の昼下がりのこと。ヤングでナウな私は、昼に食べた物をとっくに消化し終え、小腹を空かせていた。ダイエットや我慢といった言葉とは一切無縁な私は、オーバーカロリーという負の遺産などには怯むべくも無く、歩いて五分程度の近所のコンビニへ車で出向き、己の欲望を満たさんと、買い物かごいっぱいに食べ物を詰め込んだのだ。


 そう、もうお察しの通り、私は自堕落を絵に描いたようなやつなのである。なれば当然のことながら、走る、運動する、体を気遣うなんて、そんなことを思いつく筈も無い。


 「デュフフ! おやつにのり弁と焼きそばを買っちゃったけど、ヘ〇シアスパークリングを買ったからカロリーゼロ!」などと、デブ丸出しの異次元な理屈を脳内展開しながらコンビニを出た私は、車を発進させようと、ポケットを弄り車のキーを探したい。そのとき――。


「あっ、ちょっとそこのお兄ちゃん、良いかな?」


 と、突然声をかけられた。声の方を見ると、そこには四十代前半か、或いは三十代後半くらいの作業着を着たおじさんが立っていた。「どうしました?」と、何の気なしに返答をすると、「〇〇病院へ行きたいのだけど道を教えてほしい」と言う。


 確かに、当時はスマホを持っていない人も多く、グーグ〇マップ等のアプリですぐに道を調べることなんかはできなかったとは思う。が、それにしたってこんな所で迷うなよと、私はそう考えずにはいられなかった。


 まずその病院から現在地までは十キロくらいは離れているので、いくらなんでもこんな所で迷うのは見当違いだろう。せめて迷うならもっと近くで迷えよと思ったし、その病院は大きな道に面した場所にあって、大きな看板だって出している。よって土地勘の無い者であっても、現在地から適当に東へ進むだけでも概ね簡単に辿り着くことができるのだ。


 などとそうは思いながらも、私はここから何処其処の道を東へ走って、ほにゃららの辺りで左折ですよと、懇切丁寧こんせつていねいに教えたものである。


 だがしかし、ここで話は終わらなかった。


 「この辺に住んでるの?」「へぇ、高校時代は卓球部だったんだ。えっ? 昔は格闘技もやってたの? 空手? おー、体ガッチリしてるもんね。どうりでねぇ」「その袋の中身は? マジ? 昼飯食ったのに? 超食うじゃん(笑)」などと、延々延々と語られる世間話。このときの私は、「早く終わってくれよ! デブはおやつを食べないと餓死するんだよ!」と、内心思いながらも、そうは言えずに相槌を打ちながら話を聞いていた。


 そうこうして数分が経過した頃。それは起こった。いや、起こってしまった。笑顔のまま顔を伏せたかと思えば、フーっと深呼吸をするおじさん。そうして顔を伏せたまま、言葉を切り出す。


「……なぁ、兄ちゃん……ところでさ――」


 “男に興味は無いかい?”。


 走っていた。その言葉を理解するよりも遥かに先に。そして走りながらも脳内でリフレインするその声、顔、表情。間違いない。あれは、本気マジだ。


 それってどういう意味⁉  いや、どうもこうもない‼  そういう意味だろ‼


 気付いたときには、私は民家と民家の間に身を潜めるようにしていた。距離にして、件のコンビニから約二キロくらいの位置。脚も肺も焼け付いて、正にもう一歩も動けないという有り様だった。


 たった二キロ程度で情けないことを言うな? いやいや、そう言わないで下さいよ。あのときの私はボ〇トを置き去りにするくらいの勢いで走ったし、メロスよりも遥かに走っていた自信があるのだから。


 何故車を使わなかったのか? それはきっと野生の勘、あるいはシックスセンスなんて言われるものが働いたからではないだろうか。


 もしもあのとき車に乗り、手がおぼつかないままエンジンを掛けている最中に襲われでもしたら、冷静さを失っていた私はきっと抵抗はできなかった筈。そうでなくとも、例えば、もしも車のナンバーを覚えられていたら? そう考えた私は車を捨てて、自らの脚に頼ったのではないかと、後付けのように聞こえるかもしれないけれど、そう思わずにはいられなかった。


 いずれにせよ、幸い追いかけられるようなことは無かった。逃げ際に、後ろから何かを言われていたような気もするけれど、幸か不幸か、私にはそれが聞こえていなかったし、覚えてもいない。


 車を置きっぱなしにする訳にもいかず、恐る恐るコンビニに戻ると、もうその場におじさんの姿は無かった。が、それより約半年間、その体験があまりにも恐ろしくて、私はそのコンビニに近付くことさえできなかった。

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