;第一話 桜が、お好きなのですか 3
見頃の時期はいつなのか、咲いている場所は他にあるのか。
桜に関して造詣が深いらしい玉月さんは、わたしの問いに一から十まで答えてくれた。
不思議なもので、桜を介すと話しやすかった。
玉月さんも、桜の話題になると受け答えが柔らかくなった。
たとえ錯覚でも、玉月さんと分かち合えるものが出来たことが、わたしは嬉しかった。
「───ふぅ、素晴らしい眼福に与ったわ。
付き合ってくれてありがとう、玉月さん」
「恐れ入ります」
名残惜しくも庭園を後にし、二人揃って座敷に上がる。
わたしの緊張がぶり返してはいけないと配慮してか、玉月さんは引き戸を開けたままにしてくれた。
「(あれは……)」
玉月さんが身を翻した瞬間、羽織の裾から見え隠れしていた刀が露になった。
大きめのと、小さめのが一本ずつ。
どちらもよく磨かれているが、大きめの方がやや使い込まれている。
なるほど、用心棒。
女性ながら、肩書きは伊達じゃなさそうだ。
「姫様」
「はい?」
「ここ。衿のところと、たれの部分。僅かですが乱れてます」
「えっ、ほんとう?」
背後に回った玉月さんに指摘される。
着衣の乱れは確認済みだが、自力では見落としがあったようだ。
「お嫌でなければ、私が直します」
「いいえそんな、これくらい自分で────」
「ご自分では手の届かない位置ですし、手鏡を用意するにも時間が足りないかと」
「そ、そうなんです、か」
「大丈夫。女人同士とて、不用意に触れることは致しません。
上様への目通りも控えていますから、どうぞ貴女は、そのままに」
「……わかりました。お願いします」
玉月さんに促され、わたしはその場に気を付けした。
お世話係というだけあり、玉月さんは手際よく、わたしの着衣を正していった。
伊達衿の次は、帯のたれだ。
「……玉月さん?どうかしました?」
玉月さんが途中で動かなくなった。
わたしは気を付けしたまま、玉月さんに呼び掛けた。
「来ます」
わたしの耳元で囁いた玉月さんは、一歩後ろへ引き下がった。
直しは既に終わったようだ。
「あ……?ありがとう、ございました……?」
"なにか"が来るのか、"誰か"が来るのか。
玉月さんの視線の先を辿ってみると、特に変哲のない障子戸があった。
庭園とを隔てた引き戸が二ノ丸側であるのに対し、障子戸は本丸側とを隔てたものだ。
そこへ、なにやら引きずるような足音が聞こえてきた。
障子戸の向こうから、真っすぐに座敷へと近付いて来る。
恐らくは、男が寄越すと言っていた案内の者だろう。
つまり玉月さんは、わたしが気付くずっと前から、気配に備えていたわけか。
なんて感度の鋭さだ。
「───長らく、お待たせしました。
上様のお膝元へお連れしたく参りました。支度の程は如何でありましょうや?」
足音が座敷の前で止まり、障子戸越しに伺いを立てられる。
細く低い声からして、案内の者は古希前後の男性と思われる。
「済みました。今そちらへ行きます」
いよいよか。
落ち着きを取り戻したはずの心臓が、当初とは違う律動で再び騒ぎ始める。
「姫様」
玉月さんが心配そうに、わたしの顔を覗き込む。
わたしは一つ深呼吸をし、自らを鼓舞するために両の頬を軽く叩いた。
「よし。行きましょう」
玉月さんを伴って座敷を出ると、腰の曲がった老夫が待っていた。
老父はわたしに向かって一礼し、わたしもすかさず一礼を返した。
「謁見の間までご案内しますので、私の後に来てくださいますか?」
「はい。お願いします」
わたしに一言断った老父は、廊下を北へ進んでいった。
わたしと玉月さんは、老夫の歩調に合わせて追随した。
「───おい、あれ」
「ああ」
物々しい黒装束の男達と擦れ違う。
座敷へ通された際には見掛けなかったが、城を守る兵士だろうか。
玉月さんとは身なりが異なるので、帯刀は共通しても役職が別なのは明らかだ。
家臣や女中らしき人達とも擦れ違い、石造りの上品な中庭を越えていくと、廊下の突き当たりに行き着いた。
この山水柄の襖こそが大広間、老父いわく謁見の間への入口か。
「───この奥にて、上様がお待ちです。ご準備はよろしいですかな?」
足を止めた老父が、こちらに振り返る。
「(ここを開けたら、もう二度と───)」
わたしは無意識に袖口を握り締めた。
すると玉月さんが背中を擦ってくれた。
おかげで呼吸が楽になった。
「どうぞ」
玉月さんに感謝の目配せをしてから、老父に返事をする。
頷いた老父は、大広間にいる上様に対して、到着の旨を知らせた。
「上様。お連れ致しました」
「おお、待っていたぞ。入りなさい」
柔らかい低音。上様の声か。
若く親しみ易そうではあるが、実際の人柄やいかに。
「いきます」
老父が襖に指をかけ、ゆっくりと横に滑らせる。
八十畳はあろうかという空間に御座すのは、上様その人と思しき殿方だった。
「よくぞ参った。
さ、遠慮せず。近う寄りなさい」
鮮やかな照柿の衣装を着込み、脇息に凭れかかった姿勢で、来い来いと手招きをする上様。
声の通りに、若々しいお姿をされている。
これで、わたしより一回りも年上というのだから驚きだ。
「失礼します」
上段の間まで歩み寄っていく。
玉月さんは付いて来てくれたが、老父は御役御免と退いた。
「そなたは"これ"に」
"これ"と上様が促したのは、高価そうな
上様が掛けておられる座椅子と脇息の生地も、同じ色で統一されている。
いくら招かれた立場といえど、お殿様と同等のものを使わせてもらうだなんて。
恐縮しながら座布団に座ると、玉月さんがわたしの側を離れていった。
行かないでと、つい口走りそうになった。
「いや、遠路遥々やって来たというに、大した持て成しも至らず、すまなかったな」
「い、いいえ。滅相もございません」
「はは、そう硬くならずとも
上様は軽やかに笑った。
「なにも、取って食おうというのではない。もっと楽にしなさい」
「はい……」
「どれ。そなたの口から改めて、名を聞かせてはくれないか?」
わたしは背筋を伸ばした。
「ウキです。雨の希望と書いて、
上様は満足そうに上顎を指でなぞった。
「そうか、ウキか。
話に聞いた通り、花も恥じらう可憐さよな」
「かれん、なんて、わたしは全然……」
「謙遜をするな。この私が言うのだから、間違いないのだ」
「はぁ……。恐れ入ります」
やんごとない殿方が相手であるからか、どうにも頭が回らない。
せっかく好意的に接してくれているのに、こちらの気分はまるで蛇に睨まれた蛙だ。
「しかし、そなたのような若い娘には、酷な仕打ちであったな」
「え?」
上様の顔に陰が落ちる。
「郷里の前途を秤にかけたらば、拒めんのも当然だ。
私の身勝手が招いたとはいえ、あまりに顧慮が足らなんだ。まこと、申し訳なかった」
謝られた、のか?
お殿様ともあろう人が、そこらの田舎娘なんかに?
とっさに反応できなかったわたしは、ぽかんと口を開けてしまった。
「いかんな」
意味深な溜め息をついた上様が腰を上げる。
どうしよう、来る。
やっとの思いで、わたしは声を出した。
「あ、あの、上様───」
「いや、いい」
わたしの目の前で膝を折った上様は、わたしの左手を掬いとった。
「そなたの気持ちは、痛いほど伝わっておる。
だが案ずるな。そなたの親も、里も。最後まで、しかと面倒をみる」
「あ……」
「困ったことがあれば、父や兄にするように、頼って構わんのだからな」
本当は、ずっと恐ろしかった。
どこぞのお殿様に嫁ぐと決めた、あの日から。
輿入れなどとは形だけで、手酷い仕打ちが待っているに違いない。
側室とは名ばかりの奴隷には、まともな尊厳が与えられるはずないと。
ところが、どうだ。
わたしの手を握ってくれるこの人は、鬼でもなければ悪党にも見えない。
胸中で張り詰めていた糸が、するすると解けていくようだった。
「ふつつか者ですが、上様。
これからどうぞ、よろしくお願いします」
畏敬の念を込めて平伏する。
上様はふっと笑みを零すと、わたしの頭を撫でてくれた。
「祝言を挙げるのは、もうしばらく先だ。
今はのびのびと、新しい暮らしを楽しむがいい」
「ありがとうございます」
「うむ。───して、才蔵よ」
「はい」
立ち上がった上様は、上座の脇に控える玉月さんに目をやった。
わたしと離れてからというもの、彼女はあそこで微動だにしていない。
「宣告に変わりない。ウキの世話役は、お前に任せる。
なにかあれば逐一、私に報せるように」
「承知しました」
上様が上座へ戻っていく。
玉月さんは上様と入れ替わりで、わたしに近付いた。
「お加減はいかがですか」
わたしの側で屈んだ玉月さんは、上様に聞こえないよう声を潜めた。
「大丈夫です。ご心配をかけました」
わたしが小さく頷くと、玉月さんも頷き返してくれた。
手足に血が巡り、全身が温かくなっていく。
出会って間もないのに、玉月さんが側にいてくれるだけで、わたしは心が安らぐようだ。
「宴の席まで一休みと致しましょう。立てますか?」
「あ、でも、それだと上様が────」
「宴には上様もお見えになりますから、ご歓談はその時にでも」
たった今この時を迎えるまで、不安に押し潰されてしまいそうだったけれど。
憂いていたより、先行きは明るいかもしれない。
「上様。一度下がって構いませんか」
「ああ。羽を伸ばしておくといい。───ウキ、また後でな」
「はい。失礼します」
気掛かりが残るとすれば、ひとつだけ。
先程に一瞬、ほんの一瞬、上様を睨んだ玉月さんから、底深い闇が感じられたということだ。
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