;第一話 桜が、お好きなのですか
町に入って四半刻ほど。
わたしと道連れの使者達は、ようやく目的地に到着した。
屋根付きの塀と門の向こうに聳え立つは、松前藩が築いたとされる"
黒い瓦と白い壁との対比が美しい、いわゆる梯郭式の平城である。
景観が真新しく見える理由は、城郭としてはほぼ機能していないから。
要塞に使われたことがない分、経年劣化以外で損なわれることもないそうだ。
「───長旅、ご苦労様でした。
お休みになれる場所へご案内いたします」
出迎えの城番に、本丸へと連れていかれる。
内郭も見事な造りになっていて、床ひとつ柱ひとつ取っても輝いていた。
こんなに元が広くて綺麗だと、毎日の掃除だけで骨が折れそうだ。
なんて感想が最初に浮かんでしまうのは、貧乏娘の悪い癖だ。
「恐れ入りますが、ただいま歓迎の支度を整えておりますゆえ、しばし此処でお待ちください」
感動は束の間。
座敷に通されるやいなや、ここで一人待つようにと置き去りにされてしまった。
わたしを迎え入れる支度が整っていないため、目処が立つまでは控えていてほしいという。
「せっかくだし、今のうちに……」
ある意味で、わたしにとっては吉報だった。
待機を言い渡されたということは、直ちに上様に目通りをしなくても良いということ。
僅かながら猶予を与えられたと考え、こちらも身なりや心持ちを整える時間とさせてもらおう。
「衿よし、帯よし、袖よし……」
不安はあれど、人事を尽くして天命を待つ。
これは父の教えだ。
「(ん……?)」
裾の乱れを調べる途中、視界の端で何かがちらりと白光した。
よく目を凝らすと、紙切れに似たものが引き戸の側に落ちていた。
どこからか風に乗って、座敷へ入り込んだらしい。
「(布……?花……?)」
近寄って拾い上げてみる。
さらさらとした布のような手触りに加え、ほのかに甘い香りがする。
花びらだろうか。だとしたら、なんの花だろうか。
「(ちょっとくらいなら、いいかな)」
控えていろと言われた手前、気が引けるけれど。
外の様子を窺うだけなら、大目に見てもらえるはず。
念のため周囲を警戒してから、引き戸の隙間を全開にする。
そこには、我が目を疑うほどの絶景が広がっていた。
「すごい───」
撫子色の花木が立ち並んだ庭園。
塀よりも高く枝を延ばしたそれらは、神々しさをも感じさせる精彩を放っていた。
「なんて綺麗なの」
備え付けの雪駄を履き、庭園の奥へと足を延ばす。
触れられる距離まで花木に迫ると、甘く清らな香りがした。
拾ったものと同じ香りだ。
一見すると梅だが、比べると微妙に違う。
見たことのない、名前も知らない、ただただ美しい花。
ひらひらと左右に揺られながら降ってくる花びらなんて、まるで季節外れの雪のよう。
「───桜が、お好きなのですか」
次の瞬間、誰かの凛とした声が耳に響いた。
花木に見惚れるあまり、存在に気付けずにいたらしい。
驚いて声のした方へ振り返ると、その人との間を突風が吹いた。
反射的に目を瞑ってしまったわたしは、鎮まっていくのを肌で感じて、恐る恐ると瞼を上げた。
真っ先に視界に飛び込んできたのは、髪だった。
烏の濡れ羽という表現が相応しい、艶やかな黒髪。
舞い散る花びらと共に、はらはらと宙を踊らされている。
後れ毛を本人の指が掬うと、面立ちも露になった。
「あ────」
瑞々しい肌、凛々しい眉。
通った鼻筋に、涼しげな目元。
感嘆の息を逆に呑んでしまうほどの美貌を持った少年、いや青年。
腰にかかる長髪を青い組紐で高く結わえ、百姓と侍が混在したような袴と股引を穿き、体格よりも一回り大きい真っ白な羽織を纏っている。
美貌のみならず出で立ちまでも奇異とは、もしや花の精かなにか。
と思いきや、ちゃんと生身の人間だった。
瞬きも呼吸も正常で、伸びた影も
他に気配はない。
先程の声は、青年が発したもので間違いなさそうだ。
続きを喋ろうとしないのは、わたしの反応を待ってくれているからだろう。
「(あ、れ……?)」
青年の気遣いに反して、わたしは直ぐには答えられなかった。
強張った喉は空気を漏らすばかりで、音には変わってくれなかった。
「(はやく、はやく返事を……!)」
過ぎた沈黙はたった数秒でも、わたしには酷く長かった。
「───おい玉月!」
わたしの異変を察したのか、青年が再び口を開く。
すると同時に、青年のものではない怒声が庭園中に響き渡った。
青年の背後、わたしの対角から、新たな人物が大股でやって来る。
髷頭に髭面をした、青年とは違って一般的な袴姿の、大人の男だった。
「なにやってんだお前は!下がれ!」
男は青年の肩を掴んで後ろに下がらせると、人の好い笑顔を取り繕ってわたしに向き直った。
「この者がとんだご無礼をいたしました。千茅雨希さまでいらっしゃいますね?」
「は、はい」
「長旅でお疲れのところ、たいへん申し訳ないのですが、大事なお話があって参りました。
どうぞ、そちらにお掛けになってください」
ひとまずは縁側にと、男に促される。
わたしが座ったのを確認した男は、あれきり一言も喋らない青年の脇腹を肘で小突いた。
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