;序章 わたし、二人の娘に生まれて良かったわ 3
使者との会談が決着したあと。
わたしは一人、外の空気を吸いに出た。
頭を冷やせば、少しは気持ちも落ち着くだろうと思ったからだ。
「(嫁入り道具───、って必要なのかな。
お城に住むんだったら、きっと何でも揃っているだろうし。変に荷物を増やしたら、道のりが大変なことになりそう。
お付きの人達に迷惑をかけないためにも、着の身着の儘くらいが丁度いいかもしれない)」
人のいない道を選んで歩きながら、考えるのは先々のことばかり。
なのに実感は殆どなく、誰が嫁に行くのかと、まるで他人事のよう。
あんな啖呵まで切ったくせに、平和ぼけもいいところだ。
「(さぞ綺麗な町なんだろうな)」
故郷の、里の発展を、願っていた。
人も家も、田畑さえも意気軒昂。
食卓には収まりきらない作物が並び、幼子たちの頬は丸く光る。
それが本当に叶うかもしれないと、やっと現実らしくなってきたのだ。
変わってほしいが変わってほしくないなどと、矛盾を垂れるのは今の内にしておけ。
「今までありがとう」
暮れだした太陽が燃えている。
どんなに遠く離れても、この空と太陽だけは変わらないだろう。
黄昏時に迫るたび、きっと今日を思い出す。
彼は誰時を迎えるたび、きっと今日を思い出す。
「一足早く、さようなら」
都で雨に濡れるたび、城で馳走に与るたび、いずこで睦まじい親子を見掛けるたびに。
きっと、今日という日を思い出すに違いない。
**
「───ウキ!!」
「あ、……母さん」
暗くなる前にうちへ戻ると、野次馬はもう居なかった。
代わりに、神妙な面持ちをした母さんが軒先に立っていた。
「ただいま。どこ行ってたの?」
「……くれのさんのとこに、お邪魔してた」
「そっか。
わたしはちょっと、その辺りをね。歩いてきた」
「そう……」
わたしと父さんが会談に臨む間、母さんは父さんに言われて席を外していた。
やっぱり、お隣様に避難させてもらっていたようだ。
「ウキ。……ねえ、ウキ」
「はい、母さん」
「お父さんから、ぜんぶ聞いたわ。……あなた、本当にこれでいいの?」
わたしの右手を取った母さんが、か細く問う。
瞳が潤んでいて、口周りが爛れているのは、慟哭した証拠だ。
わたしが散歩から戻るまでにも、また一悶着あったらしい。
「いいのよ、母さん。
わたし一人と引き換えに、この里みんなの平和を約束してもらえるんだもの。とても有り難い話だわ」
「───ッなにが有り難いもんですか!!」
わたしの言葉を遮って、母さんが金切り声を上げる。
「里の人間が一人って、よそが聞いたら大したことないって言うかもしれない。
けど私達は違うのよ。大切な家族を失うの。愛する我が子を奪われるのよ。
それがどれほど悲しくて、大きな代償か、あなた分かる?」
ぼたぼたと大粒の涙を零しながら、息も絶え絶えに訴えてくる母さん。
すっかり気圧されたわたしは、瞬きしか自由にならなかった。
「ねぇウキ。あなたの人生は、あなただけのもの。
自分さえ我慢すればなんて、そんなこと言わないで」
いけない。
一瞬でも気を抜けば、わたしの瞳からも熱い涙が零れてしまう。
わたしが始めたことで、わたしが泣いてはいけない。
「もっと勝手気ままに振る舞っていいの。好きなものは好きと、嫌なら嫌と言っていいの」
「お、かあさ」
「里のことなら、きっとなんとかなる。みんなで力を合わせればきっと」
母の左手がわたしの掌を撫で、母の右手がわたしの頬を撫でる。
激しい声とは裏腹に、まるで壊れ物に触れるように。
「だからウキ、いかないで。犠牲になんてならないで」
ああ、だめだ。
わたしはとうとう、我慢が利かなかった。
視界が歪み、鼻の奥がつんと痛む。
塞き止めようにも、次から次へと溢れてくる。
よりにもよって、母さんを相手に泣くなんて。
自分の身勝手さに嫌気が差し、つい顔を背けてしまう。
すると、全身を柔らかく包まれた。
抱き寄せられたのだと、とっさには分からなかった。
「雨希」
母さんが、わたしの名を呼ぶ。
「ウキ」
悩み抜いて付けてくれたという名を、わたしの耳元で何度も呼ぶ。
「うき」
最初は叱るように、諭すように。
最後は縋るように、祈るように、わたしの名を呼んだ。
「おかあさん」
わたしは母さんの肩に頭を預け、そっと抱き締め返した。
「聞いて」
自分の思ったように、ありのままを伝えればいい。
だから、そうする。
「二人には、辛いことだろうけど。わたしは、これでいいと思うの」
薄い背中を撫でてやる。
さっき、いつも、母さんがわたしに、してくれたように。
「ちっとも不安じゃないとは言えないし、みんなと別れるのも寂しいわ。
でも、いいの。このままじゃみんな、里で死ぬか、里の外で死ぬか、結局は終わりになってしまう。
わたし、そんなのいやよ」
「ウキ……」
「わたし、みんなに幸せでいてもらいたいの。大切な家族を、ふるさとを守りたいの」
「でも────」
「わたしの人生はわたしのものって、母さん言ってくれたわ。
だから、どうか許して。これが、わたしの願いなの」
衿元が湿ってきた。
母さんの涙を吸った分だけ、冷たく重くなっていく。
「親不孝者で、ごめんなさい」
わたしの"ごめんなさい"に対して、母さんはいっぱいの"ごめんね"を返してきた。
不甲斐なくてごめんね。
引き留めてあげられなくてごめんね。
私達の子供に生んでしまって、ごめんねと。
"────待ってくれ、ウキ。早合点しちゃ駄目だ。"
"お前一人が辛い目を見る必要はない。里の問題は、里のみんなで、少しずつ解決していけばいいんだ。"
"頼む、ウキ。そんな、
そんなことを、言わないでくれ────。"
父さんも、強く反対していた。
お前だけで背負い込まなくていいと、お前が欠けては里の安寧も無意味だと。
恐らくは、悔いたのだ。
自分の態度が、結果的にわたしの決意を後押ししてしまっただろうことを。
"───ごめんね、おとうさん。"
"でも、わたしの心は、そうしろって言ってるの。
だから、わたしはそうしたい───。"
それでも、わたしは我を通した。
共倒れになるくらいなら、わたしが代表して重荷を担いでみせる。
父さんの優しさを傷付けてでも、選んだことを変えないことを、決めた。
「なに言ってるの。
生んでしまって、じゃないでしょ」
見知らぬ土地で、見知らぬ男性と
想像すればするほど足は竦むし、腰も引けてしまう。
だけど、いい。
父さんも母さんも、里のみんなも。
わたしを大事に思ってくれている。愛してくれている。
幸せだった思い出と、付けてもらった名前があれば、これからどんなことがあったとしても、耐えていける。
向こう見ずと怒られても、独りよがりと嗤われても。
大好きな家族のためになれるなら、こんなに嬉しいことはないわ。
「わたし、二人の娘に生まれて良かったわ」
この里は、わたしのすべてだから。
『
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