3.彼女が目を覚ましたら
しばらく、紋白蝶は蛍の隣に座り、会話──というよりも、一方的な質問を繰り返していた。蛍は子犬の相手をさせられる大人の猫のように冷めた態度ながらも、彼女の質問を無視することなく答え続けていた。そのさらに隣で様子を窺っていると、紋白蝶は会話の途中でハッと我に返ったように、ぼくに問いかけてきた。
「あれ、姉妹はこれで全員?」
その問いに、ぼくも蛍も一瞬黙り込んでしまった。少しだけ周囲を窺ってから、ぼくは紋白蝶に答えた。
「本当はもう一人いるんだ。秋茜だよ。憶えている?」
「そうだ、秋茜! うん、憶えている。彼女はどうしたの?」
「修理中なんですって」
蛍が答えた。
「でも、もう間もなく部屋に戻される頃だって聞いている」
「そっか。秋茜も壊れてしまっていたんだね」
紋白蝶はそう言って、首を傾げた。
「修理が長引いちゃったのかな。目を覚ました時は、ボクのこと、憶えてくれているかな」
「どうだろうね」
ぼくは言った。
「全部忘れちゃっている可能性もあるかもね」
無害化というのが、どういう処置になるのか、ぼくにはよく分からない。ただ、姉妹を襲うまでの精神状態をなかった事にしてしまうということは、それだけ強力な修正が行われるということ。正すというべきなのか、歪めるというべきなのか、よくよく考えてみれば分からなくなるような処置には違いない。そして同時に、一体どの地点からやり直すことになるのかも、よく分からなかった。
ともすれば、『蜘蛛の巣』での出来事を全て忘れてしまっているかもしれない。
「そっか。それは寂しいな」
何も知らないままの紋白蝶は、がっかりしたような表情を見せた。
「でも、これからまた新しく思い出を作ればいいんだね」
すぐに笑みを取り戻す彼女に、ぼくもまた笑みを返した。
「紋白蝶が優しく引っ張ってくれたら、きっと秋茜も心強いかもね」
「うん!」
ぼくの言葉に自信満々に頷いた紋白蝶は、そのまま小部屋を這い出して、踊り場にて立ち上がった。そして、ぼく達に向かって言った。
「じゃあ、ボク、そろそろ行くね。講堂のステージに上がってみたいからさ」
そして、蛍に向かって小声で言った。
「他の皆にはこの場所のこと、内緒にしてあげる」
蛍が照れ隠しに視線を逸らすと、紋白蝶は笑みを深めて手を振った。
「じゃ、またね。空蝉、ありがとうね」
「いいよ。またね、紋白蝶」
手をひらひらさせて去っていく彼女を見送り、小部屋の扉を閉めてしまうと、辺りは一気に静かになった。静寂がすっかり戻ってくると、蛍はさり気なくぼくの肩に寄り掛かってきた。
「ずいぶん長い事、案内していたのね」
蛍の小さな囁きに、ぼくもまた囁き返した。
「もしかしてだけどさ、嫉妬している?」
「まさか……でも、ちょっとだけ寂しかった」
蛍の正直な言葉に苦笑しつつ、ぼくは窓から差し込む日の光に手をかざした。温もりは、この体でも少しだけ分かる気がする。間違いなく生身であった頃の名残で、その感覚を思い出しているだけかもしれないけれど、ぽかぽかして心地よかった。
この場所を蛍が気に入っている事を知ったのは、二人きりで暮らし始めた時の事だった。かつてこの場所は、ぼくのお気に入りだったらしい。その時の記憶は、やはり戻ってきていないけれど、ぼくが好きだったこの場所を、蛍も好きになり、ぼくがその事を忘れてしまった後も、ずっとここに居続けていたそうだ。
強制停止になった後も、破壊された後も、蛍はこの場所を忘れていなかった。そして、ぼくに教えてくれてからは、この場所は、ぼく達のスポットになった。
「あの子、またここに来るのかな」
蛍がぽつりと呟いた。その気怠そうな表情に、思わずぼくは訊ねてしまった。
「紋白蝶のこと、苦手なの?」
「……そうかも」
正直な答えが返ってきた。だが、すぐに蛍は付け加えた。
「でも、この施設には必要な姉妹に違いない。あの強引さと図々しさに救われる人もいるかもしれないから」
蛍の言葉に頷きつつ、ぼくは小声で言った。
「秋茜はどう思うかな。目を覚ました時、紋白蝶に任せても大丈夫だと思う?」
「さあね。心配なら、あなたも立ち会ってあげたら?」
蛍に真っすぐ言われ、ぼくは悩みつつも頷いた。
「そうしようと思う。伯母さんにも言われたから。秋茜が再び目を覚ましたら、前の試験の事は忘れて接してあげて欲しいって。他の姉妹たちの目覚めには同席したんだから、秋茜もそうするつもりだよ」
けれど正直に言うと、ぼくは少しだけ不安だった。臨時試験の最後の、秋茜の事がどうしても頭を過るからだ。同じ記憶を持つ別人みたいなもの。そうは聞かされているけれど、だからこそ、ぼくは冷や冷やしてしまう。
秋茜がどうして嫉妬に狂ってしまったのか。それは、彼女自身がもともと抱えていた負の記憶にある。無害化というのが具体的にどのようなものなのかは分からないけれど、だからこそ、ぼくは思うのだ。彼女の中にはまだ、狂気の芽となる種が残っているのだと。でも、その一方で、ぼくは期待してもいた。ここでの暮らしが、彼女の心の傷を癒すきっかけになれないかと。
「優しいのね。わたしも嫉妬しちゃいそう」
蛍が冗談交じりに呟き、ぼくは慌てて返した。
「どうして? 蛍が嫉妬するような事なんてないよ?」
すると、蛍は面白がるように笑ってから、頷いた。
「それは分かっている。でも、そういう事じゃないの」
「どういう事?」
問い返すぼくの愚鈍さに呆れたのか、蛍は目を逸らして溜息を吐くような動作を見せた。そして彼女は言ったのだった。
「秋茜の事だけど、あなたが心配するのなら、わたしも気にかけてみる。秋茜だけじゃないわ。他の姉妹たちにも、もっと関心を向けてみようと思う。ここの職員に任せていたら、何度壊されるか分かったもんじゃないから」
「そうだね。君の言う通りだ」
きっとこういうやり取りすら、蜘蛛の目で監視する幽霊蜘蛛たちは、興味深いデータとしてしか認識していないのだろう。勝ち残った蛍とぼくの人として当たり前の配慮という要望が、どれだけ彼らに聞き入れて貰えているかなんて、分かりっこないのだから。
だが、それでも、そうだとしても、ぼくは諦めたくなかった。
ぼく達は、機械乙女。人間の完全なる蘇生を目標に生み出された存在。間違いなく生きた存在である事を、この施設の外の世界にも認めて貰える日は必ず来るはずだ。その日の到来が明るい未来であることを、ぼくは信じていたかった。そして、その光を道標に、これから目を覚ますはずの秋茜を新しく迎え入れたいと願っていた。
その日の予感を噛みしめながら、ぼくは陽だまりの中、蛍の体に身を寄せた。蛍は静かに手を伸ばし、ぼくの手を握りしめてきた。ぎゅっと結ばれたその手からは、何の情報も伝わっては来ない。それでも、ぼくは、感じることが出来た。ぼくの中に保存されている、愛という名の記憶を。
蜘蛛の巣の乙女たち ねこじゃ・じぇねこ @zenyatta031
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