◆ ?日目

1.無垢なる未来

 臨時の試験が終わってしまうと、『蜘蛛の巣』はすっかり静かになってしまった。残されたのは、蛍とぼくの二人だけ。彼女がいれば、寂しくなんてなかったけれど、二人で過ごすにはこの施設は広すぎる。それに、他の姉妹たちの痕跡を見かけるたびに恋しくなってしまうのも確かだった。けれど、心配はいらない。秋茜によって破壊された姉妹たちは死んでしまったわけではないし、強制停止になっただけの姉妹たちもまた、メンテナンスさえ終われば再び動くと聞かされていたからだ。

 幽霊蜘蛛の言う通り、強制停止になった姉妹たちから部屋に戻され、次々に目を覚ましていった。揚羽、蟋蟀、金蚊、そして日暮。不具合を抱えた蜜蜂のみ時間はかかったものの、皆、問題なく目を覚ましていった。それに、破壊されていた姉妹たちも同じ。瑠璃星、花虻、七星と、修理がしやすいのだという順番に部屋へと戻ってきたあとで、蜉蝣、稲子と、修理にやや手間がかかる第三シリーズの姉妹たちも戻ってきた。

 それぞれが目覚める場に、ぼくは何となく立ち会い続けた。いまだに記憶は完全に戻っているわけではない。蛍との通信で、蛍の記憶にある限りのぼくの姿を鍵として、眠っている自分の記憶を掘り起こそうと何度もしてきたが、十分ではなかった。けれど、聞く話によれば、ぼくは以前もこうやって妹たちの目覚めになるべく立ち会っていたのだという。それは、長姉として、という責任感から来るものではないとぼくは思っている。ただ、ぼくと同じように、故人の完全なる蘇りを目指して作られた姉妹たちを、深く知りたかったからなのだろう。

 目覚めた妹たちは、皆、それぞれ好き勝手に過ごしていた。ぼくの事を姉と慕う者なんていないし、いなくていい。ただそれぞれ、生前から受け継ぐ記憶や、強制停止や故障によって眠る前に有していた記憶の断片に従いながら、予定通りのプログラムを受け続けていた。彼女たちが過ごすようになると、『蜘蛛の巣』もだいぶ賑やかになった。もう蛍と二人きりではない。静けさが懐かしくなったりもしたけれど、それでも、ぼくは彼女たちが戻ってきてくれて嬉しいと心から思えたのだった。

 そして、平穏な日々がすっかり戻りつつある頃合い、また新たな姉妹の目覚めを知らせるアナウンスが施設内に流れた。ぼくはすぐに彼女の眠る部屋まで向かった。他の姉妹は誰も来ない。蛍もまた、辛うじてまだ静けさの残る施設の隅っこで過ごしたいと、ついて来てはくれなかった。他の姉妹たちもきっと、それぞれが関心を持ちつつも、好き勝手に過ごしているのだろう。でも、それでいい。お迎えも、案内も、ぼく一人で十分だ。そんな事を想いながら、ぼくはその姉妹の目覚めた部屋を訪問した。ドアベルを鳴らす前に、扉は勝手に開かれた。その先の、ベッドの上で、目覚めたばかりの彼女は呆然としている。

「おはよう……入ってもいい?」

 ぼくの問いに、彼女──紋白蝶の視線が此方を向いた。おずおずと頷くのを待ってから、ぼくは彼女の傍へと向かっていった。目覚めたばかりの紋白蝶は、おとぎ話のお姫さまのようだった。かつて、目覚めたぼくを迎えてくれた賑やかさはない。まだ頭の中がぼんやりしているのだろう。そんな彼女にぼくは話しかけた。

「具合はどう? ぼくの事、思い出せる?」

 ぼくの問いを受け、紋白蝶はじっとその目をこちらに向けた。そして、彼女はようやく口を開いたのだった。

「……空蝉」

 どうやら、憶えているらしい。かつて見た紋白蝶の表情が戻ってきている。自分の額に手を当てて前髪を掻き揚げながら呟くように言った。

「ボク、どうしちゃったのかな。なんだか長い夢を見ていたみたいなの」

「どんな夢?」

 ぼくが訊ねると、紋白蝶は答えた。

「あのね! 日暮とお話した後、お部屋に戻ろうとした時に呼び止められて──」

 と、言いかけたものの、紋白蝶は途中で言葉を詰まらせ、やがては首を横に振った。

「ううん。やっぱり何でもない。悪い夢だったんだと思う」

「そっか」

 ぼくは微笑みかけ、そのまま口を噤んだ。

 姉妹たちの目覚めの日を迎えるにあたって、幽霊蜘蛛がメンテナンス中のぼくや蛍の夢に現れ、協力を要請したことがある。それが、臨時試験にまつわる話のタブー化だった。

 この度の試験は無事に終わり、犯人だった秋茜は勝負に敗北した罰として無害化される事になる。再び目を覚ました彼女は同じ記憶を有する別人のようなもので、姉妹を襲うことに躊躇いをなくしてしまう前の状態に戻るのだという。だから、臨時の試験の話や、その際の犯人は誰であったのかという事を、みだりに他の姉妹と話して欲しくないとのことだ。

 これは秋茜のためだけではない。彼女に破壊されてしまった姉妹たちにとって、この話自体が負担となる可能性もあるのだという。だから、姉妹たちに対し、すでに終わった試験のことをむやみやたらに教えないようにと言われてもいた。

 紋白蝶もそうだった。彼女自身が真実に辿り着き、それを知りたいと言い出さない限りは、ぼくが語れることは何もない。ただ静かに見守る事しか出来なかった。

「ねえ、空蝉」

 紋白蝶は言った。

「ボク、ちょっと、変かもしれない。記憶が飛び飛びなの。ボク、もしかして、ずっと眠っていたのかな?」

「実はそうなんだ。ちょっと長い間、紋白蝶は眠っていたんだよ。その間に、色んなことがあって……。そうだ、紋白蝶、他の皆の事はちゃんと憶えている?」

「ちゃんと憶えているよ……って言いたいところだけど、自信がないかも」

 紋白蝶は何処か不安そうに言った。

「ねえ、空蝉。久しぶりなのなら、皆に挨拶に行くの、ちょっと怖いな」

 甘えるような眼差しで袖を掴まれ、ぼくは言った。

「じゃあ、ぼくも一緒に挨拶してまわろうか?」

 すると紋白蝶は、ぼくには真似できない、かつて秋茜が嫉妬した気持ちがよく分かる繊細な動きでその顔に笑みを浮かべ、頷いたのだった。

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