3.負けてしまうくらいなら
蛍の部屋の中で、ぼくは悶々としていた。
またしても、手応えのないまま投票時間は終わってしまった。一応、昨日の蛍との話し合いにより、投票先は秋茜ではなく瑠璃星に変更してある。金蚊が入れると思われる場所に合わせた形となっている。けれど、嫌な予感はした。会議中のあの空気からして、金蚊にこそ票が集まってしまうのではないかという予感である。ぼくはどう庇えば良かったのだろう。明確な答えが見つからないまま、ぼくはただ思い悩んでいた。
けれど、そんなぼくに蛍は言った。
「まだ、やれることはある」
彼女はまだ諦めていないようだった。
「作戦を練りましょう。その為に、また確認させて。前回はこの後どうなったの? あなたの記憶を覗きたいの」
「……いいよ。好きなだけ覗いて」
抱きしめ合って、ぼく達はそのまま蛍のベッドの上に倒れ込んだ。
密接する場所が次々に接合していく快感に身もだえしながら、ぼくは、ぼんやりと天井を見上げた。ちかちかと光る「蜘蛛の目」が視界に入ったが、恥じらいも何も感じなかった。ただその明かりを見ているうちに、視界はどんどんぼやけていった。代わりに浮かび上がったのは、蛍の中の記憶の情景だった。
季節は冬。肌寒さが記憶の一部としてぼくの頭に流れ込んでくる。身震いをしながら街角できょろきょろしている蛍の視界に、遠くから手を振り近づいて来る人物が映り込んだ。ぼくだ。空蝉になる前の、ぼく。
これはいつの記憶だっただろう。考えた瞬間、ぼくの身体の奥から、思い出せずに引っ掛かっていた記憶のうちの一つが蘇り、この光景に重なってきた。待ち合わせの時間、既に到着していた蛍に手を振り、鞄の中に用意した贈り物を確認していた。中身はペアリングの片割れ。いかにも学生らしい、世間的には安っぽい代物だっただろう。それでも、この時のぼくの手持ちからすれば、決して安くない代物でもあったのだ。
この日は、付き合い始めて一年。その為の特別な一日だった。
ぼくの贈り物が、この時の蛍の好みにぴったり合っていたかは、実は分からない。揺るぎない自信があると言えば嘘になる。それでも、彼女は喜んでくれた。この日以来、ぼくと会う時は、必ずつけてくれたし、ぼくもまた必ずつけていた。
いつか、大人になったら、その時も変わらず互いの事を想い合えたなら、もっと高くてしっかりした指輪を彼女に贈ろう。そんな事を考えていた。そんな未来を思い描いていた。その時の事を、ぼくはこの時になって思い出したのだ。
指輪。ぼくも生きている頃は嵌めていた。
──あの指輪は、どうなったんだっけ。
思い出そうとした時、ぼくの脳裏に恐ろしい光景が浮かび上がった。避ける間もなく迫りくる暴走車。その強い衝撃に跳ね飛ばされ、叩きつけられた冷たい地面の上で、ただ見つめた光景。段々と遠ざかっていく意識の中で、ぼくが最後に憶えているのはコロコロと何処かへ転がっていく大事なペアリングの姿だった。
──ああ、多分あの時、なくしてしまったんだ。
そう思った瞬間、ぼくは息を詰まらせた。恐怖と悲しみ、そして苦しみが同時に沸き起こり、苦痛に喘いでしまった。そんなぼくを見て、蛍は素早く身を離した。接続が解けて、記憶の生み出すかつての光景もすっと首を引っ込めていく。生身の肉体を持っていた頃のように呼吸を整えようとする自分の体を少しずつ落ち着けていると、蛍はそんなぼくを窺いながら問いかけてきた。
「大丈夫?」
そっと肩に触れてきたその左手に、あのリングが嵌っているのを目にして、ぼくは泣きそうになった。涙は全く零れない。それでも、心は泣いていた。嬉し涙なのか、悔し涙なのか、はたまた悲しみの涙なのか分からない。ただ、その指輪を観た瞬間、ぼくは胸が締め付けられるような思いに駆られたのだ。
「蛍……ぼく……ぼくの指輪はどこへ行ってしまったのだろう」
朦朧としながらそう呟くぼくを見て、蛍は表情を変えた。そして、ぼくを慰めるように彼女は囁いてきた。
「気にしなくていいの。あなたのせいじゃないもの。それに、わたしはあなたが思い出してくれるだけで十分だから」
「でも……でも……」
魘されるように繰り返すぼくを、蛍は宥めながら囁いてきた。
「それよりも、あなたの記憶をちゃんと確認できた。花虻がいなくなって、その後は七星だったのね。という事は、次もまた七星が狙われる可能性がある、と」
「絶対にそうなるとは限らないけれどね」
ぼくの言葉に蛍は頷きつつ、言った。
「だけど、出来る限りの事はしておきたい。ねえ、空蝉。今日、もしも金蚊が選ばれてしまったら、尚更、わたし達は追い詰められる。だから、そうなる前に、試しておきたいことがあるの」
「試すって?」
ぼくが問い返すと、蛍は小声で言った。
「一か八かの作戦よ。犯人が瑠璃星であれ、秋茜であれ、うまく行けば追い詰められるかもしれない。その為にも、わたしはこれから七星に会いに行ってくる」
「……じゃあ、ぼくも一緒に」
「いいえ。あなたには日暮に会いに行って欲しいの」
「日暮に? どうして?」
「理由は……そうね。今から直接伝えるから、もう少しじっとしていて」
そう言って蛍は再び、ぼくの体に覆い被さってきた。密接した部位が接合し、血流のように互いの情報が流れていく。快楽と共に伝わってきたのは、蛍の考えている作戦についてだった。ぼくはその情報を静かに受け止め、頭の中に焼き付けていった。
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