2.精神的苦痛
会議室では、すでに稲子の様子を確認したと思しき四人が席についていた。皆、それぞれ沈痛な面持ちで待っている。特に落ち込んだ様子だったのが、恐らくあの中で唯一、前回の稲子の惨状を憶えていただろう蟋蟀の方だった。
席に着くと、すぐにアナウンスがあり、会議は始まった。
「さて、蟋蟀君の言っていた通りの光景を、僕たちは見てきたわけだが」
瑠璃星がすぐに口を開いた。
「説明はどのくらい必要かな」
ため息交じりに彼女は言う。冷静だが、動揺しているらしい。その表情から、ぼくの脳裏にかつて見た稲子の姿が浮かび上がった。流血こそないとはいえ、ショッキングな光景には変わりない。
「口にしづらい様子だったのなら、ざっくりと、でいいわ」
秋茜が察したようにそう言うと、瑠璃星は静かに頷いて説明を始めた。
「じゃあ、そうさせて貰おう。稲子君は講堂のステージ上に倒れていたよ。ひと目で、彼女が完全に壊れていることが分かる状況だった」
瑠璃星の説明は実にシンプルなものだった。百聞は一見に如かずという言葉があるけれど、これを聞いただけで、あの状況を想像できるものだろうか。だが、どのように壊れていたかは、この際、さほど関係ない。誰が壊したのか。それさえ分かればいいのだから。
「講堂ってことは、だ」
と、口を開いたのは金蚊だった。
「いっつもあいつと講堂にいたやつが、稲子と最後にあった奴らってことでいいのか。どうなんだ? 日暮クンに蟋蟀クン?」
煽るように訊ねられ、日暮は腕を組みながら応戦した。
「私を疑うってわけ? あなたも犯人は私じゃなかったって憶えているんじゃなかったの?」
「ああ、憶えているともさ。だが、この記憶通りとは限ンねーだろう。犯人が同じって言ったのは空蝉クンだ。空蝉クンの証言を丸ッと信じちまうのも面白くないからね」
「……そう。じゃあ、きちんと反論しておきましょうか。確かに昨日、私たちは稲子と一緒にいた。不安な気持ちを振り払うには、いつものように過ごすのが一番だったから。蟋蟀が演奏して、私が歌って、稲子が舞台上で妖精のようにくるくる踊り回る。別に、いつもと同じよ。まあ、違う事があったとしたら──」
と、日暮が口籠りそうになったところへ、蟋蟀が続けた。
「昨日、日暮は先に帰ったんだ。俺と稲子だけが講堂に残った」
沈黙が通り過ぎていく。澄まし顔の日暮がややあってからそれに同意した。
「そうね。蟋蟀の言う通りよ」
姉妹たちの視線が一斉に蟋蟀へと向く。その視線に疑惑が含まれていることは言うまでもなかった。金蚊が口を開いた。
「なるほどねえ。記憶のない姉妹たちの参考になるかどうか分かんねえけどさぁ、オレ様が憶えているのは日暮クンが犯人ではないって事だけなんだよね。蟋蟀クンがどうだったかなんて、憶えてねえや」
疑惑が増したのを感じ、ぼくは慌てて発言した。
「蟋蟀ではないよ」
金蚊のぎらりと睨むような視線がこちらに向けられる。だが、どうにか怯まずに、ぼくは皆に向かって訴えかけた。
「ぼくは憶えている。あの時もやっぱりそうだった。稲子が壊されて、同じように蟋蟀が疑われてしまったんだ。最後に一緒にいたから。でも、違うって蟋蟀は言っていた。ねえ、そうだよね。憶えているでしょう?」
ぼくは蟋蟀に話を振った。だが蟋蟀は、俯いたままだった。そして、彼女は言ったのだ。
「さあ、どうだったっけな」
絶句してしまった。
──どうして。
頭の中が疑問でいっぱいになり、それ以上、口が動かなかった。
沈黙するぼくの代わりに、瑠璃星が蟋蟀に訊ねた。
「憶えていないのかい?」
すると、蟋蟀は顔を上げた。
「憶えているよ。思い出せるよ。だが、これって本当だったかな。分からなくなってしまうんだ。それにね、どっちでもいいという気持ちにもなってくる」
「……どういうこと?」
困惑するぼくの問いに対し、蟋蟀からは乾いた笑いが返ってきた。
「臨時試験そのものに付き合う事への是非だ。こんな思いをしてまで協力する意味がどこにある。俺のこの態度も、まともに付き合うお前の態度も、全部、奴らは興味深いデータとしてしか見ていない。あの『蜘蛛の目』で!」
蟋蟀は天井を指さしながら言った。
「……あの『蜘蛛の目』で、今も俺の反応を観察して、好奇心を満たしているんだろうさ。そう思うと、バカバカしくなってこないか。少なくとも、俺はなる。なんで、俺はこのプロジェクトを希望したんだっけ。素直に死んでいた方が楽だったんじゃないかって、抽選に落ちた方が良かったんじゃないかって、そう思ってしまうんだ」
皆がしんと静まり返る。その空気に危機感を覚え、ぼくは蟋蟀に声をかけた。
「ねえ、蟋蟀」
けれど、蟋蟀はそれを遮るように続けた。
「なあ、皆、もしよかったら聞いてくれないか。俺と稲子の事をさ。日暮はだいたい知っているかもしれないけど、皆にはあまり話したことがなかったかもしれないから」
「それは、今回の試験に関係する事なのかい?」
瑠璃星が冷静に問いかけるが、蟋蟀は苦笑しつつ答えた。
「いや、全く関係ないよ。ただの雑談さ。この時間を使って言うことじゃないって分かっているとも。でも、いま、話しておきたいんだ。皆に知ってもらいたい。俺たち自身が忘れてしまう前に」
蟋蟀の言葉に、瑠璃星は渋い顔をする。この時間はもっと有意義に使いたいというその本音が透けて見えた。ぼくも正直同じだった。でも、止める気にもならなかった。
「いいわよ」
そう言ったのは、秋茜だった。
「話してみて」
彼女の許可を阻む者もまた、どこにもいなかった。
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