3.恋人の記憶
蛍。その姿を目にして、ぼくは思わず惚けてしまった。そうだ、そういえば、目を覚ましてから彼女の姿を見るのは、これが初めてだった。黒髪と黒い眼差しが、ぼくの心を縛り上げる。前の試験の時の記憶が瞬時に蘇り、ぼくは震えてしまった。最後に彼女を見たのは、記憶の樹の根元でのこと。無残に壊された彼女の姿だ。けれど今、彼女はここにいる。修理されたからだと分かっていても、ぼくは心を激しく揺さぶられていた。
また会えた。
その思いに駆られ、喜びがこみ上げてくる。
「蛍」
その名を呼ぶと、蛍もまた驚いたような表情を見せた。
「わたしを……憶えているの?」
怪訝そうにではあったが、そう問いかけてきた。
「憶えている。ううん、眠っている間に思い出せたんだ。君は憶えているよね。ぼくの事。ぼくが機械乙女になる前の事。憶えているんでしょう?」
気持ちが高ぶって抑えきれない。そんなぼくの落ち着きのない問いかけに、蛍はやや警戒を見せた。だが、逃げたり、避けたりはしなかった。彼女はただ俯き、ぼくの眼差しを避けながらも、きちんと答えてくれた。
「ええ……そうね」
落胆するような表情は何故だろう。窺うぼくに対し、蛍は続けた。
「少なくとも、あなたよりはきちんと憶えているはず。あなたが機械乙女になる前の事も、なった後の事も」
「それじゃあ、確認していい?」
「何を?」
「君とぼくの今の関係についてだよ。ぼくは思い出したばかりなんだ。この体になる直前の事を。ぼくは君と会うために出かけていて──」
「関係は変わらないわ。でも、以前のようにはいかない」
突き放すようにそう言われて、ぼくは身を乗り出した。
「どうして?」
近づいても蛍は避けたりしない。それでも、ぼく達の間には、厚い壁があるように感じられてならなかった。
蛍は静かに答えた。
「また、あなたは忘れてしまうかもしれない。これまでのように」
悲しそうなその眼差しに、ぼくは閉口するしかなかった。
思い出せる事と、思い出せない事がある。夢で見たのは、ほんの一部だけなのだろう。確かに、ぼくは機械乙女になってからの記憶が殆どなかった。蛍はどうなのだろう。どのくらいの事を、把握しているのだろう。様々な疑問が駆け巡っていく。そして、ぼくはふと今の状況を思い出したのだった。
「蛍は……どのくらいの事を憶えているの?」
「どのくらいって」
「生前の話じゃない。ここでの生活の事だよ。ぼくが目を覚ます直前、君はここで何をしていたの?」
「いつもと変わらないわ」
「長く眠っていた時があったんじゃない? 近い過去に修理を受けたはずだよ」
「ええ、間違いないわ。でも、その前の事もある程度は憶えている。何故、故障してしまったのかは忘れてしまったけれど」
「試験だよ」
ぼくは食い気味に言った。
「臨時試験って分かる? その途中で君は、別の姉妹に壊されてしまったんだ」
「……臨時試験?」
蛍は困惑していた。その表情と眼差しから、ぼくは察したのだ。ああ、憶えていないのだと。けれど、幸いな事に、どうやら憶えていないのは一部の出来事だけのようだ。
「臨時の試験があったの? つい最近?」
「よかった。臨時試験の事は分かるんだね? そうなんだよ。ぼくが眠っていたのも、そのせいなんだ」
ぼくの言葉に蛍は沈黙してしまった。考え込んでいるらしい。思い出そうとしているのだろうか。だが、どうやら何も思い出せなかったようで、浮かない表情のまま彼女は口を開いたのだった。
「ごめんなさい。揶揄っているわけじゃないっていうのは分かるのだけど、思い出せない以上、鵜呑みにすることも出来ないわ」
申し訳なさそうに顔をそむける彼女に、ぼくは落胆しつつも答えた。
「いいんだ。でも、嘘だと思ってもいいから、聞いて欲しいんだ。もしも同じ流れが繰り返されるのだとしたら、明日は紋白蝶が犠牲になる。犠牲になる順番は確か……蜉蝣に、稲子だ。その後も次々に犠牲者が出て、最終的にぼくは秋茜と瑠璃星の三人で残されたんだ。その時の犠牲者が君だった。本当の犯人に君を壊した罪を着せられて、ぼくは吊るされてしまったんだ」
蛍はじっとぼくを見つめてきた。嘘だと一蹴したりはしなかったけれど、その眼差しから信じて貰えているとも思えなかった。
だけど、それでもいい。ぼくが彼女に伝えたいことは、ぼくを信じて欲しいという事ではなかった。
「ねえ、蛍」
ぼくは必死になって伝えた。
「ぼく、君が壊されるところをもう見たくないんだ。だから、憶えていて欲しいの。瑠璃星か、秋茜なんだ。あの二人のどちらかが、君を壊してしまったんだ。お願い。あの二人に気を付けて。どっちかがまた、臨時試験を起こすかもしれないから」
伝いたい事を言い切ると、蛍は小さく息を吐いた。
そして、ぼくにそっと近寄ると、静かに手を握ってきた。
「鵜呑みには出来ない……けれど」
黒い目をぼくに向け、彼女は微かに目を細めた。
「今のあなた、とても懐かしい香りがする」
その表情、その眼差しに、ぼくは目を奪われてしまった。ああ、そうだ。ぼくはこの人の事を本当に愛していたのだ。体の成長と大人への近づきを予感する繊細なあの時期、気づいたら目で追ってしまっていた面影が、機械乙女になってしまった今も彼女には宿っている。その事を思い出すと、ずっと忘れてしまっていた彼女に対するあらゆる情がこみ上げてくる。だが、それまでだった。
蛍は手を放し、そっとぼくから離れた。
「空蝉。悪い事は言わないわ。今の話は心にしまっておいた方がいい。あなたが嘘をついているとか、混乱しているって言いたいわけじゃないの。でも、それがもし本当ならば、なおさら慎重になってほしいの」
「慎重に?」
問い返すと、蛍はこくりと頷いた。
「臨時の試験が本当にあるのなら、壊される可能性があるのはあなたも同じ。記憶があるのなら特に、犯人はあなたを狙うかもしれない。ねえ、空蝉。もしも、あなたの言っていることが本当に起こってしまった時は、明日の夕方、わたしの部屋に来て」
「蛍の部屋に?」
「うん。その時は、大事なことを教えたいの。……だから」
窺ってくる彼女の眼差しに、ぼくはその肩を抱いてしっかりと頷いた。
「分かった。約束するよ」
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