2.失いたくない笑顔

 あの日と一緒だ。ぼくは思った。図書館には瑠璃星、七星、秋茜、講堂には稲子、蟋蟀、日暮、美術室には金蚊、揚羽。その後は、記憶の樹の下で、紋白蝶と会話をする。そして、思い出したように向かったのが、部屋に引きこもる蜉蝣のもと。そこで軽い会話をしたその内容もまた、記憶にある内容とほぼ変わらなかった。

「さてと、あと一人なんだけど……どこにいるんだろう?」

 そう言って、紋白蝶は最後の一人を探す。そんな彼女に、ぼくは言った。

「蛍なら、近くにいると思う」

 ぼくの言葉を聞いて、紋白蝶が視線をこちらに向ける。

「ちゃんと分かるんだね。やっぱり恋人……だから?」

 窺うようにそう言われて、ぼくは俯いた。

 恋人。その言葉を反芻して、納得する。前に目覚めた時は、それすら思い出せなかったのだ。けれど、皆は知っていた。新しく誕生した紋白蝶でさえも。こうやって当然のように話を振られてみて、しっくり来たことに内心驚いてしまう。

 寧ろ、なんで忘れていたのだろう。

 思い出せば思い出すほど、ぼくは胸が熱くなった。

 しばらく黙り込んでその感覚に浸り、ふと我に返ってぼくは紋白蝶に答えた。

「そうかもしれないね」

「そっか」

 紋白蝶は納得したように言った。

「それなら尚更、蛍の事を探さないとね。ちゃんと二人で再会できるところまで見ないと、今夜は眠れなくなっちゃうかも」

 無邪気にそう言ってはしゃぐ彼女の姿に、ぼくは焦燥感を覚えた。

 日が落ちようとしている。夕日が差し込み、廊下とぼくと紋白蝶を、オレンジ色に染めている。その心細い色合いに急かされつつ、ぼくは紋白蝶に言ったのだった。

「あのさ、紋白蝶。大事な話があるんだ」

「どうしたの?」

 それは、一か八かの賭けでもあった。

「臨時試験の話、さっきちょっとだけしたよね。憶えている?」

「言っていた……かも? それがどうかしたの?」

「今夜、君を壊そうとする姉妹が現れる」

 きょとんとしたままの彼女の肩を、ぼくは掴みながら訴えかけた。

「いいかい、ぼくと別れた後の話だよ。多分この後、君は姉妹に呼ばれて──」

 と、その時、言っている傍から声はかかった。

「あ、ここにいた。おーい、紋白蝶!」

 稲子だ。手を振りながら、彼女は言う。

「なんかね、日暮が──」

 そんな彼女に対し、ぼくは慌てて声を上げた。

「待って。お願い、ちょっとだけ時間を頂戴!」

 そうして、ぼくはもう一度だけ、紋白蝶に言い聞かせたのだった。

「あのね、冗談だと思うかもしれないけれど、憶えていてほしいんだ。この後、君は日暮から忠告を受けることになる。問題はその後だ。その後、君を壊そうとする姉妹が現れる。だから、気を付けて欲しいんだ」

「ボクを壊そうとする……それって誰なの?」

「分からない。少なくとも稲子や日暮じゃない事は分かっているんだけど……」

 そして、ぼくは二人の姉妹の顔を思い出した。

「そうだ。瑠璃星か秋茜だ。いいかい、紋白蝶。あの二人に気を付けて。どっちであっても二人きりになっちゃ駄目だ」

 必死になって訴えるぼくの姿はさぞかし異様だっただろう。紋白蝶は困惑した表情を浮かべていた。しかし、我に返るとその表情を引っ込めて、ぼくの手を掴み、そっと方から外すと、にこりと笑いかけてきたのだった。

「さては悪い夢でも見たな?」

 愛らしく問いかけてくる彼女に、ぼくは必死になった。

「違う。違うんだ、ぼくは」

「ボクも目を覚ましたばかりの時は、悪い夢を見たから分かるんだ。生前の記憶とか、前に稼働していた時とか、体に残っている情報がこんがらがってしまうんだってさ。しばらくここで過ごしていたら元に戻っていくんだって」

「ぼくは……本当に……」

 まずい。全然伝わっていない。焦りだけが増していった。

「ねえ、まだ?」

 後ろから稲子が窺ってくる。ろくに返事も出来ないぼくの代わりに、紋白蝶が返答した。

「今行く!」

 そして、彼女はぼくの手をするりと抜けてしまった。

「もう行かなきゃ。続きは、また明日ね」

 そう言って立ち去ってしまう彼女を、ぼくは視線で追いかけた。呼び止める隙も与えられぬまま、彼女は稲子と共に廊下の角を曲がる。

「……待って」

 慌ててその後ろ姿を追っていくも、彼女たちの姿はすでになかった。どうやら、近くの階段へと消えていったらしい。

 どうしよう。

 追いかけるべきか、ぼくは迷ってしまった。伝えたいことは最低限伝えてはある。そこへさらに、日暮からも忠告を受けるはず。それに、あまりにもしつこいと、ぼくの方が怖がられてしまうかもしれない。

 あらゆる事を考えると、足は完全に止まってしまった。

 日が陰り始める。視界の端で中庭の記憶の樹が風に揺さぶられている様子が見えた。ぼくが出来る事は、あと何だろう。日暮の話が終わるのを待って、紋白蝶とまた一緒にいるのはどうだろうか。このままだと彼女が壊されてしまう。そう思うと焦ってしまう。そのくらい、もう見たくなかったのだ。あの光景を。今日見た彼女の笑みを思い出す度に、それが失われる事が許せなかった。

 瑠璃星か、秋茜か。

 大事なことは伝えられたと信じている。

 問題は、紋白蝶がどれだけ真面目に捉えてくれるかだ。

「……どうしよう」

 ここから、ぼくに出来る事は、他に何があるだろう。

 思考がぐるぐると空回りするのが分かる。考えたところで名案など浮かばない。それでも、考える事をやめる事も出来ぬまま、ぼくは立ち尽くしていた。

 背後から声がかかったのは、そんな時だった。

「どうしたの?」

 振り返るとそこには、蛍がいた。

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