◆ 0日目
1.記憶にある世界
目が覚めた直後、ぼくは飛び起きた。きっと生身の体であればびっしょり汗をかいていただろうし、目からは涙を零していただろう。そのいずれも生じていなかったものの、ぼくはしばらく喘いでいた。本当ならば必要のない呼吸をしようとしていたのだ。生きた体を持っていた時の名残なのだろう。そのまましばらく呼吸を整えようと体が動き、冷静さを取り戻した。周囲を見渡して、ぼくは自分が個室にいる事に気づいた。憶えている。全て、憶えている。鏡に映るその姿が誰なのかも、全て憶えていた。
しばらくして、足音が聞こえてきた。部屋の前で立ち止まるも、ドアベルの音は鳴らない。勝手に扉が開き、訪問者を招き入れる。そして、姿を現したのは、やはり憶えのある人物だった。
「おはよう……入ってもいい?」
窺ってくるその姿に、ぼくは動揺してしまった。
「紋白蝶?」
その名を呼ぶと、彼女は驚いたように目を丸くした。その表情の繊細さが印象に残る。ぼくの体では不可能だろう。だが、そんな事はどうでもいい。紋白蝶がいる。壊されていない。いや、修理されたばかりなのだろう。
「ボクの事……憶えているんだね?」
目を輝かせ、彼女は部屋に飛び込んできた。真っすぐ、ぼくのベッドまで駆け込むと、そのまま隣に座った。
「どのくらい憶えている? ボクが目を覚ます前の事とか、思い出せる?」
「えっと……」
期待の眼差しを一身に受けて、ぼくは戸惑ってしまった。紋白蝶が望んでいる答えは何だろうと考えかけて、すぐにボクは首を横に振った。
「ごめんね。はっきりとは憶えていないんだ。でも、いつだったか君に、この『蜘蛛の巣』の中を案内してもらった時の事は憶えているよ」
そう言って笑いかけると、紋白蝶は不思議そうな顔をした。
「そんな事……あったっけ?」
きょとんとする彼女の顔に、ぼくは衝撃を受けてしまった。
「憶えていないの?」
思わず問いかけると、紋白蝶は首を傾げた。
「ボクが知っているのはね、この体が完成して、目を覚ますまでの間、空蝉が毎日見守ってくれていたっていう話だよ。花虻が教えてくれたんだ。空蝉は皆のお姉ちゃんだから、新しい妹が増えると、そうやって見守ってくれる時があったんだって。でも、ボクが目を覚ます前に、トラブルがあって故障しちゃったらしくて、それで眠ってしまったの」
「じゃあ……臨時試験の事とかは知らないんだね?」
呟くようにそう言うと、紋白蝶は問い返してきた。
「臨時試験……って何?」
「ごめん、何でもないんだ。寝惚けていただけかも」
ぼくはすぐにそう言って、紋白蝶の顔を見つめた。
幽霊蜘蛛と会話した夢の記憶は確かに頭に残っている。単なる夢とは思えない。その証拠に、ぼくはこの日の事をよく覚えている。
「ねえ、空蝉。気分はどう?」
紋白蝶の問いに、ぼくは頷いた。
「大丈夫だよ」
「記憶もしっかりしている? 自分の事とか、この施設の事とか、ちゃんと憶えている?」
「憶えているよ。ぼくは空蝉で、ここは『蜘蛛の巣』だったね。ぼくはここで、生きた人間に戻るための訓練をしているところだったはずだ」
「うん。大丈夫そうだね」
明るく頷く紋白蝶を、ぼくは見つめた。
「それで君は、ぼくを迎えに来てくれたんでしょう?」
「うん、そうだよ」
そう言って、紋白蝶はベッドから飛び降り、ぼくの両手を握りしめた。とても柔らかい。ぼくの手とはまるで違う感触だった。
「話が早くて助かるよ。じゃあ、さっそく行こうか。もたもたしていると、あっという間に日が暮れちゃうからさ」
にっこりと笑いかけられ、ぼくは心がきゅっと絞めつけられた。幽霊蜘蛛が言っていた通りならば、紋白蝶は。けれど、何も言えないまま、ぼくは手を引かれて外へと出た。向かう先は前と一緒だった。談話室──は、誰もいない。そうだ。そうだった。だから、ぼく達は近くにある温室へと向かうのだ。
「良かった。ここに居たんだね。探したんだよ」
あの時と同じように、そこには花虻と蜜蜂がいた。二人の姿を見て、ぼくは少しだけ怖気づいてしまった。前回の試験の事が頭を過ったからだ。姉妹共にぼくを疑い、そして花虻は壊され、蜜蜂は壊れてしまった。この場所が現場だった事を思い出すと、変わり果てた花虻の姿が頭を過り、途端に恐怖を覚えてしまった。
それでも、今は、平穏な時が流れていた。
「きっと紋白蝶が連れて来てくれるだろうって話していたの」
あの時と同じように、花虻が微笑みかけてくる。
「予想通り、紋白蝶に任せていたら良さそうね」
蜜蜂もそう言って笑った。
紋白蝶が口を開くより先に、ぼくは二人に向かって言った。
「花虻、それに蜜蜂」
名前を呼ぶと、二人揃って目を丸くした。
「あらまあ、空蝉。今回は私たちの事、憶えていらっしゃるのね?」
「良かった。いつも長期間眠ったあとは調子が悪そうだったから、今回もそうなのかなって、あたし達、心配していたんだ」
二人から向けられる感情は、この温室の雰囲気と同じくらい暖かなものだった。ぼくはひとまず心を落ち着けて、二人に向かって笑いかけた。
「ありがとう。心配をかけて御免。また、よろしくね」
そう言ったところで、紋白蝶が存在をアピールするように手を引っ張ってきた。
「ボクが紹介するまでもなさそうだね。じゃあ、次の場所に行こうか。何せ『蜘蛛の巣』は広いんだから。日が暮れちゃう前に皆と会わないと」
「うん。分かった」
素直に頷くと、紋白蝶は満足そうに笑ってみせた。
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