3.小蜘蛛たちのお迎え
投票は、まともに選べなかった。ただ単に指の当たった方を名前も見ずに選び、決定ボタンを押した記憶だけがある。解放されるなり、ふらふらとその場を去って、ぼくが向かったのは中庭だった。記憶の樹の根元に座り込むと、そのままぼくは部屋にも戻らずにじっとしていた。
どうして、こんな事になってしまったのだろう。
後悔ばかりが頭を過った。
今回の投票で選ばれるのは自分だ。そんな予感がすでにあった。瑠璃星と秋茜の眼差しが、それを裏付ける。ぼくはこのまま吊られてしまう。未完成品であり、不安定なぼくの体は、その負担に耐えられないかもしれない。
また忘れてしまうのだろうか。せっかく思い出しかけた蛍のことも、これまでのことも。けれど、どうにか希望を持ちたかった。次に目覚めた時は、臨時試験などない穏やかな日々が待っているかもしれない、と。けれど、その一方で恐ろしい考えが顔を覗かせてくる。もしも、瑠璃星が疑っているように、ぼく自身が自覚せぬ犯人だったならば。平穏な日々など訪れないかもしれないのだ。そんな事はないと信じたい。信じたいけれど。
様々な不安が頭を過る度、ぼくはぼくについて知らなすぎる事を実感した。ぼくよりもずっと蛍の方が知っていたのだ。彼女が持っている記憶を共有してもらうには、昨日の時間だけでは足りな過ぎた。引きこもっていたことを今更ながら後悔した。もっと勇気を出して、もっと蛍と会話をしておけばよかったと。
全ては遅すぎる。ぼくが今、願えるとすれば、再び目を覚ました時にせめて今日までの記憶が残っているということだけ。しかし、無邪気に願うには不安が多かった。もしも、記憶が失われるのならば、それは死ぬことと同じだ。そう思うと途端に怖くなり、ぼくは震えてしまった。
「……蛍……紋白蝶」
対極的だが優しかった二人の事を思い出すと、非常に恋しくなった。ここに座って彼女らと話した日が懐かしい。その日に戻りたい。そんな事をひたすら思っているうちに、日は傾き、暮れなずむ。そしてとうとう日が沈み、真っ暗になってしまった後も、ぼくは移動する気になれなかった。
このまま、ここにいたい。
風の音と記憶の樹の枝の音を聞いていたかった。
ずっとここにいたら、どうなるのだったっけ。やがて聞こえてきた就寝を告げるチャイムを聞きながら、ぼくは淡々と考えた。どうなるのだとしても、どうだっていい。部屋に戻ろうと、戻るまいと、ぼくを待ち受けている未来は変わらないのだから。
真っ暗な中、チャイムの音が鳴り終わると、『蜘蛛の巣』の中の灯りが次々に消えていった。初めて見るその景色をぼんやり見ていると、しばらくして施設の中を見慣れぬ者たちがうろつき始めた。機械のようだ。だが、ぼく達とはだいぶ様子が違った。
虫のような形のその機械たちは、目を赤く光らせながら廊下を掃除したり、眠っているはずの瑠璃星や秋茜のいる部屋へと向かっていったりした。メンテナンスをするのだ。彼らの仕事だったのだろう。そんな事を思っていると、中庭の扉が開かれた。蜘蛛型の機械の数体がぼくを見つめている。そして、ぼくへと近づくと赤い目をチカチカさせながら、ぼくの顔を覗き込んできた。
『空蝉。今宵の投票で、あなたが選ばれました』
それは、いつものアナウンスの声だった。
『これより、あなたには眠っていただかねばなりません。大人しく小蜘蛛達に従って、吊るし部屋に移動してください』
複数の小蜘蛛とやらに取り囲まれ、ぼくは肯くほかなかった。
連行されるように向かったのは、いつもの個室ではなく、これまで存在すら知らなかったような小部屋だった。会議室とは正反対にあり、小蜘蛛たちがロックを解除しないと開かないような扉で守られていた。促されるままに中へと踏み込むと、途端にぼくは外に出たくなってしまった。
「ここは……」
見上げた先、天上には糸が張り巡らされていた。その糸にぐるぐる巻きにされて吊るされているのは複数体の人形たちだ。日暮、金蚊、蟋蟀、蜜蜂、そして揚羽。天上から吊るされて、ぶらぶら揺られている。その表情、そして光景は非常に気味が悪くて、ぼくはすっかり怖気づいてしまった。
「ここに……吊るされるの……?」
後退りしそうになるぼくの背を、小蜘蛛の一体が阻んだ。ぼくの分は既に用意されている。ここで強制停止されて、吊るされて、そしてその後はどうなってしまうのだろう。呆然としているうちに、小蜘蛛に押し出された。そのまま強引に糸の前まで連れて行かれ、体を拘束されてしまった。そして、小蜘蛛の一体が目をチカチカさせながら、ぼくの正面へとやってきた。
『心配はいらない。君は眠るだけだ。その深い眠りで、たとえ壊れてしまったとしても、また私が直してあげよう』
直後、ぼくの体を締め付ける糸の力が強まった。
苦しい。その刺激に頭の中が真っ白になった。作り物の体でありながら、死を予感してしまうほどの苦痛がそこにあった。目を見開いて、懇願するように周囲を見つめるも、小蜘蛛達には何も伝わらない。そしてきっと彼らの目を通してぼくを見ているスタッフたちにも分からないのだろう。
──助けて。
その悲鳴は口から漏れ出すことすら許されなかった。途切れ途切れの呻き声のみが口から零れ落ち、糸はさらにぼくの体を締め上げる。そして、ぎゅうぎゅうに結ばれて身動きが取れなくなったところで、小蜘蛛の一体がぼくの体を抱きしめるように包み込んできた。
チカチカと光る赤い目の輝きが、ぼくの視界の中で滲んでいく。
『おやすみ、空蝉』
その妙な優しさすら感じる口調に包まれて、ぼくの意識は暗闇の底に沈んでいった。
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