◇ ?日目

1.幽霊蜘蛛

『空蝉』

 名前を呼ばれ、ぼくは目を開けた。周囲を見渡してみても、そこが何処なのかは分からなかった。キラキラと輝く光が七色に輝いている事だけは分かる。だが、その明かりが何処から差し込んでいるのかは、分からない。例えるなら、万華鏡の中。いつか目にした記憶だけがあるその景色によく似ていた。

 そんな空間の中を、ぼくは漂っていた。立っているわけでも、寝ているわけでもない。水中に浮かんでいるような感覚で、横たわっていたらしい。

『空蝉』

 もう一度、名前を呼ばれ、ぼくは口を開いた。

「誰なの?」

 女性の声だったのは分かった。その声に懐かしさを感じた事も。だけど、誰なのかが分からない。憶えているという事は分かるのだが、それが誰なのかを思い出せないのだ。そんなもどかしさの渦中でもがいていると、ぼくの視界の向こうで光がぎゅっと集まってきた。やがて、光は人の輪郭になり、水滴のように弾けるとその向こうに女性が現れた。ぼくたち機械乙女と同じような容姿をしている。真っ白な長髪に、すらりと伸びた手足が特徴的だ。だが、その顔には見覚えがあった。生前の記憶だろうか、それとも。凝視するぼくを静かに見つめ、彼女は口を開いた。

「結局、昔の記憶は戻らなかったようだね」

 その言葉を聞いて、ぼくはハッとした。彼女の声を憶えていた理由の一つに気づいたのだ。『蜘蛛の巣』で毎日聞くことになったアナウンス。臨時試験が開始される際に聞こえてきたあの声、そして小蜘蛛とやらを通してぼくに話しかけてきたあの声と同じだったのだ。

「あなたは……?」

「私はこのプロジェクトの責任者だ。君の意識に直接干渉するために、同じような媒体から語り掛けている。そうだな、この媒体名にちなんで幽霊蜘蛛とでも名乗っておこうか」

 幽霊蜘蛛。その名前を新たに覚えつつも、ぼくはすぐに蛍に言われた事を思い出した。プロジェクトの責任者。その人物が、ぼくとどう関係しているのかを、確かに彼女から聞いた。その事はまだちゃんと憶えている。

「たしか……ぼくのおばさんだったよね」

「なるほど、蛍との会話を憶えているんだね。それなら、希望はあるか」

 幽霊蜘蛛はそう言うと、目を細め、ぼくを見つめた。

「そうだね。私は君の伯母だ。君の母親は私の妹だった。彼女はもうこの世にはいないけれどね」

「この世にいない……?」

「ああ、その事は憶えていないか。なるほど、やはり再起動の前の記憶が飛んでしまったか。生前の記憶も、その後の記憶も、消去はされていないはずだ。原因さえ分かれば、調整して思い出させることも出来るはず……なのだが」

 彼女の言葉はあまり頭に入らなかった。ぼくはただただ、今浮かんだ疑問を解消するので精一杯だった。

「ぼくのお母さんは死んじゃったの?」

 その問いかけに、幽霊蜘蛛は大人しく頷いた。

「そうだよ。君がうんと小さな頃にね。君は祖父母の家に引き取られたんだ。私たち姉妹が育ったのと同じ家で、君はすくすくと育ち、そしてある日突然母親のあとを追いかけていってしまった」

「交通事故だったって、蛍が教えてくれた」

「その通り。それも不慮の事故だ。もともと事故が多発する危ない交差点だったらしい。奇しくもそれから数年後、君の最愛のパートナーだった蛍もまた同じ日に同じ場所で事故に遭っている」

「パー……トナー?」

 親友ではなく。しかし、その言葉を耳にした瞬間、ぼくは頭の奥底で何かが見えたような気がした。何処かに引っ掛かってしまって取れなくなっている記憶の一つだ。ぼくがどうしても思い出せない、ぼくにとって非常に大事な記憶の一つのはずだった。

「せめて、その事くらいはさっさと思い出させてやりたかったものだが」

 幽霊蜘蛛はそう言って、ぼくの前で腕を組んだ。

「すまないね。無理に弄ると状態が悪化する恐れもあるんだ。前回の……いや、もう前々回になるか、その時の臨時試験で、君は犯人に破壊されてね。その時のショックがきっかけで、不具合が生じてしまっていた。もともと試作品である君の体は不安定で、蜜蜂並みに問題が起こりやすい。修理もしたのだが、完璧ではなかったようだ」

 その言葉を淡々と耳にして、ぼくはふと忘れかけていた疑問と不満を思い出した。じっと幽霊蜘蛛──実の伯母であるという彼女の顔を見つめ、ぼくは胸に抱えたその思いを正直にぶつけてみた。

「じゃあ、臨時試験なんてしなければいいじゃないか。試験がなければ、ぼくは壊される必要も、強制停止される必要もない。犯人の事だって、伯母さんたちは見ているんでしょう? どうしてこんな方法で解決させるの?」

「それは、未来に繋がるデータになるからだよ」

 幽霊蜘蛛は悪びれもなくそう言った。

「人間同士ならば、さすがに許されないことだ。他人に危害を加えるような人物は、速やかに確保すべきだろう。だが、機械乙女たちは違う。君たちはまだ実験段階だ。生身の人間としては既に死を迎えたという事になっている」

「どういう事……? 生まれ変わったんじゃないの……?」

「蘇生プロジェクトは、飽く迄もプロジェクトだからね。一人の人間として、人権を保障されていた君たちは、機械乙女の君たちとは違う。君たちの現在の意識も、人格も、確かに尊ぶべきものに違いない事だが、まだまだ社会復帰を許されるほど完璧なものではない。だから、今はあらゆるデータが必要なのだよ」

 意味が分からない。ぼくは困惑してしまった。分かることがあるとすれば、ぼくの肉親であるこの幽霊蜘蛛とかいう人物が、どうやらぼくとはかけ離れた価値観の持ち主であるということだろう。

「じゃあ、伯母さんにとって、ぼくは実験動物ってこと?」

「実験動物とは人聞きが悪いね。これでも私は君たちには愛情を持っているのだよ。助手や協力者はたくさんいるが、一人一人の体を作り、調整しているのは私だからね。それに、君は血の繋がった姪っ子だ。妹の面影のある君の幸せを、私は一番に望んでいる」

「……でも」

 そのまま、ぼくは言葉を失ってしまった。尊重。愛情。そんな言葉をいくら口にされても、素直に受け止められない。それだけ、今のぼく達が人間ではないという事実が、それを突きつけられる事が、衝撃的だった。

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