3.記憶にある乙女
中庭で共に過ごし、一方的に話す紋白蝶の言葉に耳を傾けているうちに、あっという間に日は傾いた。
飲食を必要としないこの体は、どうやら疲労も感じないらしい。ただし、就寝時間というものはあるそうで、チャイムが鳴ったら個室へと戻らねばならないそうだ。
「あ、そうだ。暗くなっちゃう前に、紹介できていない姉妹のうちの一人に会いに行ってみようか。たぶん今も引きこもっている方の子」
「う、うん」
おずおずと頷き、紋白蝶に手を引っ張られながら立ち上がる。
長く座っていたせいか、よろめいてしまった。幸い、足が痺れるという事はなさそうだが、この体も常に万全というわけではないのだろう。
ちなみに紋白蝶の話は主に自分の話だった。生前の彼女はとにかく病弱で、あまり外ではしゃぐという事も出来なかったらしい。
話から察するに、まだまだ子供のうちに亡くなったのだろう。学校にもあまり行けなかったようで、こうした集団生活が楽しくて仕方ないよう。
と、ここまで紋白蝶の話を反芻して改めて感じることがある。ぼくは誰なんだろう。ここに来るまでにどんな経験をし、何歳くらいで、どのような経緯で、命を失ってしまったのだろう。
考えても思い出せず、何も分からないまま、ぼくは紋白蝶に手を引かれていた。
紋白蝶が向かったのは、ぼくたち姉妹一人一人に与えられた個室の一つだった。物怖じもせずに紋白蝶がドアベルを鳴らすと、ややあってそっと扉が開いた。隙間からこちらを覗いて来るのは、紋白蝶と同じように白い──というか透明感のある髪や肌を持つ姉妹だった。
「なにか……用?」
怯えているのがすぐに伝わってきた。こちらが申し訳なくなるほど。だが、紋白蝶は容赦なく大声で答えた。
「空蝉が目を覚ましたのは知っているでしょう? 紹介させてほしいの」
「ああ……紹介……うん」
彼女は納得したようにそう言った。だが、そのまま俯いてしまった。ろくに目を合わせてくれない。が、扉を閉めたりもしない。その状態のまま、紋白蝶がぼくに教えてくれた。
「この子は
紋白蝶が笑顔で紹介すると、すぐに蜉蝣は懇願するように訊ねた。
「あの……そろそろいいかな……」
「あ、うん。ありがとうね」
紋白蝶が手を振ると、蜉蝣はすぐさま扉を閉めてしまった。閉まった扉をしばし見つめてから、紋白蝶はそっと付け加えた。
「それに、ちょっとだけ人見知りなの。この部屋からあまり出てこないから、何か用がある時はドアベルを押したらいいよ」
「うん、分かった」
用があるという時が来るかどうかはともかく、こういうタイプの姉妹もいるのだと思うと何故だか少しだけホッとした。
「さてと、あと一人なんだけど……どこにいるんだろう?」
紋白蝶はそう言って、別の部屋へと駆けていく。
ある部屋の前でドアベルを押すも、反応はない。どうやらぼくの部屋の隣らしい。
「うーん、いないみたいだなぁ。まあ、しょうがないか」
すぐに諦め、紋白蝶はぼくの元へと戻ってきた。
廊下の突き当り──ぼくの立っている場所の背後から西日が差し込んでくる。オレンジ色の光が廊下を照らし、紋白蝶の姿もまたオレンジ色に染めていた。
その温かな明かりの中で彼女は朗らかな笑みを浮かべてぼくを見上げてきた。
「ね、どうだった? 仲良くできそう?」
「うん……たぶん」
「そっか。大丈夫。ボクも一緒だもの。あのね、『蜘蛛の巣』って、すごくいい場所なんだよ。慣れてきたら絶対気に入ると思う。だからさ、明日から一緒に色んな思い出を作ろう。約束だよ?」
「……うん」
両手を握られ、明るくそう言われ、ぼくは満更でもなかった。
紋白蝶の無邪気さが可愛いからというのもあったかもしれない。だが、それだけじゃない。何も分からず、どうすればいいのかも分からないぼくにとって、強く引っ張っていってくれる彼女の存在は、非常にありがたかったのだ。
「あ、ここにいた。おーい、紋白蝶!」
と、そこへ声がかかった。見れば、いつの間にか廊下の向こうに稲子がいた。手を振りながら、彼女は言う。
「なんかね、日暮が呼んでいるよ」
「はーい」
紋白蝶は返事をすると、ぼくの手を放して笑いかけてきた。
「ちょっと行ってくる。あ、ボクがいない間、一人でぶらぶらしてもいいからね。じゃ、また明日ね」
そう言って、紋白蝶は立ち去ってしまった。静かにその背中を見送り、稲子と共に何処かへ消えてしまった後も、ぼくはしばらく立ち尽くしていた。だが、日が完全に沈んで暗くなってくると、途端に居たたまれなくなり、言われた通りに当てもなく一人で施設を彷徨い始めた。
当てもない放浪ほど心細いものはない。とりあえず、紋白蝶に案内された道を思い出しながら、施設の各部屋の場所を覚えなおし、自室まで戻ってきた。少しだけ期待したのだが、紋白蝶はまだ戻ってきていないようだった。寂しさを感じながら、ふと中庭へと目をやる。そして、ぼくはそのまま惚けてしまった。
記憶の樹の根元に、さっきはいなかった姉妹の一人がいる。見覚えのないその姿。間違いない。紋白蝶が捜していた、最後の一人だ。
そっと中庭へと出ていって、ぼくは彼女に声をかけた。
「あ、あの……」
すると、彼女は顔をあげてぼくの目を見つめてきた。その途端、頭がずっしりと重くなった。堰き止められている何かが動こうとしているかのような、そんな感覚だった。しばらく頭を抱え、ぼくはじわじわと理解する。
ああ、この人のことを、ぼくは知っている。
「君は、誰?」
何とか訊ねると、彼女は黙ったまますっと立ち上がった。
黒い髪、黒い目、黒い衣装。
闇夜のような目でぼくを見つめ、彼女は小さく答えた。
「
そして、ぼくの真横を素通りした。
「そろそろ鐘が鳴る。部屋に戻った方がいい」
「あの、聞いてもいいかな?」
「質問なら、部屋の端末を使うといい。プロジェクトの責任者が答えてくれるから」
「そ、そういう事じゃなくて」
と、言いかけたところで、蛍の言った通り、チャイムが鳴り響いた。
就寝の合図、なのだろうか。呼び止める事も出来ないまま、彼女は背を向ける。そしてそのまま、自室へと戻っていってしまった。
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