第34話 なのに、どうして

「頼んだ!」

 手のひらがジンと痺れるほど強く、秋山から城ヶ崎の手にバトンが渡された。

 まるで女神の祝福を受けたように、城ヶ崎のチームは2位以下に大きく差をつけていた。

 陸上部の二人ほど上手にバトンパスが出来ないのは当然で、テイクオーバーゾーンいっぱいまでかかって、ようやくバトンは城ヶ崎の手に渡った。

 パシンという乾いた音とともに、気持ちまで渡されたような気がした。

 その気持ちを強く握りしめるようにして、城ヶ崎の足は懸命に地面を蹴った。

——わたしの足は速くない。

 他の子が出た方が、勝つ可能性はきっと高い。もしかしたら、腹痛で保健室に行ったあの子が無理して出た方が、わたしより速く走れるかも知れない。

 それでも、それでも、と城ヶ崎は思った。

 一生懸命がんばって、もしいい結果が残せたら、きっとお母さんと話すのだってうまくいく。

 子供じみた願掛けかも知れない。

 白線から落ちずに歩けたら、小石を蹴って家まで帰れたら、投げたゴミがゴミ箱に入ったら、きっといいことが待ってる。そんなのと変わらない、意味のないことだ。

 しかしそれは、大人にとっても変わらない。

 おみくじで大吉が出たら、時計の数字がゾロ目だったら、茶柱が立ったら……。

 そうやって意味のないことに勇気をもらって、人は生きていく。

 いや、勇気は初めから自分の中にあって、そんな意味のないことを理由にしてその勇気を引っ張り出すんだ。

——だから、わたしも……!

 そう思ってカーブのいちばん深いところに差しかかったとき、視線の先にそれを見た。

 校庭の隅、木の陰に隠れるように立つ、母親の姿。

——どうして?

 今日、母親から体育祭を見に来ると知らされていなかった城ヶ崎にとっては、青天の霹靂だった。

——今日は、なに?なにをしてるの?

 城ヶ崎の胸に、先日の母の醜態が苦い記憶となってよみがえった。もしまたあんな姿をみんなに見られたら……。

 自分の進みたい道について、母親と対決する覚悟は出来ていた。

 しかしそれは、いまではない。

 いま、体育祭で走っているこのときではないはずだった。

 リレーを終えて、体育祭を終えて、みんなとの時間を分かち合って、それからのはずだった。

——なのに、どうして……。

 城ヶ崎は、自分の覚悟の弱さを知った。

 さっきまでは、どんな風雨もものともしない岩のような覚悟と思っていたのに。なのにそれは、髪が揺れる程度の微々たる風で、いともあっさりと吹き飛んでしまうものだったのだ。

——なんて情けない……。

 自分にも出来ると、自分にも出来るはずだと思い込んでいたのに、実際に母親の姿を目にした途端にこの有り様だ。

 走っているからというだけでは説明のつかない激しい動悸を、胸の内に感じた。

 その途端、足がもつれた。

 足が重い、身体が重い。

 腕の振り方、足の運び方がわからなくなった。

 空気って、こんなにネバネバしていたっけ?

 気持ち悪い……。

 ふと、身体が軽くなった。

 そう思った次の瞬間、城ヶ崎は地面に突っ伏していた。

——転んだ。

 すぐにわかったが、痛みもなにも感じなかった。

 痛みよりももっとずっと大きなものにのしかかられているような気がした。

——ああもう、なにもかもダメだ……。

 せめてみんなの足を引っ張ることだけは避けたかったのに。

 差を縮められちゃうのはしょうがないよ、だってわたし、足遅いもの。

 だけどその差を出来る限り保って、アンカーにバトンを渡したかったのに。

 きっともう抜かれてしまう。

 お母さんにも、「アンタはなにやってもダメなんだから」って、進路のことなんて言い出せずに終わってしまう。

 わたしのやりたかったことは全部、終わってしまう。

 もっと、絵を褒めて欲しかった。

 もっと、絵を描いていたかった。

 もっと、お母さんに絵を見てほしかった。

 お父さんにも、もう一度会いたかった。

 どこかで、わたしの絵を見てほしかった。

 だけどもう、全部終わり。

 わたしの望みは、ここで終わり。

 こうやって地面に倒れたまま、みんなに追い抜かれて、みんなに迷惑をかけて、それで終わっていく……。

 そう思った。

 そう諦めた。

 そのとき、空気を切り裂く声が響いた。

「立て!城ヶ崎!」

 生徒席から沸き上がる喚声をものともせず、耳朶を打つ声。

 雨音を貫く雷鳴のように、波音を引き裂く汽笛のように、その声は城ヶ崎の耳に届いた。 

 そして一瞬の静寂のあと、勢いを増してふたたび湧き上がる喚声。

 その声は、彼女に立てといっていた。

 彼女に諦めるなといっていた。

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