第32話 そんなつもりで描いたんじゃないのに
——わたし、もう十分なのに。
クラスの他のリレー選手たちと入場ゲートに並びながら、いや、並ばされながら、城ヶ崎の足は緊張で震えていた。
彼女をここまで引っ張ってきたクラスメートの「大丈夫だから!」がちっとも大丈夫でないことは、城ヶ崎自身がいちばんよくわかっていた。
背が高いからって、スポーツが得意なわけじゃない。
バレーボールだって苦手だし、バスケットなんてどっちのゴールに入れればいいかわからなくなる。
ましてや走るのなんて、速いわけがない。
そんなの、みんな知ってるでしょう?わたし、体育の授業で活躍したこと一度もないじゃない?
その一方で、クラスメートたちの考えも理解でき、ありがたくもあった。
彼女たちは城ヶ崎に花を持たせようとしてくれているのだ。
——それは、わかるけど、わかるんだけど……。
せっかく自分が描いた絵をみんなに認めてもらえたのに、それをこんなことでだいなしにしてしまうのが怖かった。
いっそ、逃げ出してしまいたい。
お腹が痛くなったあの子のように、自分も体調が悪いといってみようか?実際、額には冷や汗をかいているし、手だってこんなに冷たくなっている。
それでもきっとダメだろう。
寒い日のプールのあとみたいに唇が真っ青になっているのでもなければ、いまさら「出ない」は通用しない。
そうだ、雨は?さっきポツリポツリと降り始めていた雨はどうだろう?あの雨が、リレーが始まるまでに強くなってくれれば……。
城ヶ崎の願いもむなしく、雨はからかうように時折おでこを叩くだけで、まるで「残念でした」と舌を出しているようだった。
「次は、1年生によるクラス対抗男女混合リレーです」
スピーカーから響く声にうながされ、生徒たちが一斉に動き出した。
——ああ、もうダメ……。
川に流される木の葉のように、城ヶ崎はスタート地点へと押されていった。
自分で描いたというのに、ボードの女神までもが冷たい目で自分を見下ろしているように見える。
白い女神のその顔は、諦めたような、突き放すような、こちらを見限った表情を浮かべているように感じられた。
——どうしよう、そんなつもりで描いたんじゃないのに……。
みんなを応援するつもりで描いたのに、みんなにもこんな思いをさせていたらどうしよう?
幾重にも重なる緊張と不安に押し潰されそうになって、城ヶ崎はへたり込んだ。それが目立たなかったのは、他の選手たちがスタート地点にいったん座るのと同じタイミングだったからというだけに過ぎない。
——こんなんじゃ、ますます迷惑かけちゃう……。
そう思った瞬間、城ヶ崎の前にあった背中が振り向いた。
「まいっちゃうよな、ほんと」
その声に、心臓が痛くなった。
自分のこのていたらくを見て、「そんなんじゃ困るんだよ」と叱責されているのだと思った。「デカい図体してなにしてるんだよ」と。
「デカ女、デカ女」とからかわれていた小学生時代の記憶がよみがえる。「そんなに背が大きいのに、ぜんぜんダメだね」と笑われていた頃のことが。
そしてそれに引きずられるようにして、母親に「アンタはなにも出来ない」「絵なんか描いたって仕方ない」といわれたときの記憶が……。
ところが、振り向いた背中はいうのだった。
「デカいからって、スポーツ得意とは限らないじゃんな」
デリカシーもなにもない率直な言葉の主は、秋山だった。
城ヶ崎は秋山が一緒にリレーに出ることに気づかないほど、まわりが見えなくなっていた。
「城ヶ崎さ、ほんとは代わりに出るの、嫌だろ?」
コクリ、と小さくうなずく。
「だよな」と、秋山は破顔する。「あのノリでいわれちゃうと断れないよな。でもおまえは急に決まった代役だし、どんなに遅くたって誰も文句なんかいわないって」
柔道は基本的に個人戦だ。しかし同時に団体戦でもある。
5人対5人の団体戦においては、チームメイトの存在は不可欠であり、心強い支えでもある。
それを知っている秋山だから、城ヶ崎の様子に気づき、声をかけられたのだろう。
「でも、せっかく出てっていってくれたのに、みんなの足引っ張っちゃう……」
「あの絵で十分みんなのこと引っ張り上げてくれたよ」
秋山のさらに前にいる小柄な女子生徒が振り向いていった。
「城ヶ崎さんの絵、やっぱすごいよね。見てると力が湧いてくるっていうか、安心して競技に集中できるっていうか、負ける気しなくなるもんね。記録会に持って行きたいよ」
秋山の陰に隠れそうな彼女は、陸上部の部員だった。
そして同じ陸上部の男子生徒が、城ヶ崎のすぐうしろから声をかけた。
「あとはオレたちにまかせとけって」
女子二人、男子二人で構成されるチームの、彼はアンカーだ。
「それに多少ピンチを作って盛り上げてくれた方が、陸上部としてはありがたい」
「そうなのよ、陸上部って地味じゃない?走ってるだけとかいわれてさ。だからこういうとき、サッカー部とか野球部とかバスケ部とか、ああいうのに負けたくないの。ていうか、圧勝するか、ドラマチックに勝ちたいの」
勝つ気満々で、彼女は笑った。
「オレ柔道部なんだけど」
「秋山はいいんだよ、普段から目立ってるんだから」
「そうよ、このあいだだって新聞の取材来てたじゃない」
「1位取れたらウサギのなにか買ってやるからがんばってくれ」
本気かどうかはわからないが、その言葉に秋山は色めきだった。
「忘れんなよ、全力で行くからな」
はいはい、と小柄な女子が笑った。
ああ、そうだった。と、城ヶ崎は思った。
一人で走るんじゃないんだった。
あの絵だってそうだ。
あの絵は一人で描いたんじゃない。
下描きは、自分が担当した。そうだ、「担当した」んだ。
拡大コピーはあの子が取ってくれた。絵の具の調合はあの子がやってくれた。色塗りはあの子が、買い出しはあの子が……。
線を引くのが苦手な子もいた、色を塗るのが下手な子もいた、だけどそれぞれが担当した役割を懸命に果たそうとしてくれた。
このリレーだって、一人で走るんじゃない。わたしは、第三走を担当すればいい。
「わた、わたし、がんばるから」
声に出すと、不思議なほど緊張は解けていった。
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