第31話 断っちまえよ
「ごめん、ちょっと無理そう」
午後2番目の競技に出場するはずだった女子が、応援席で腹を押さえてうずくまっていた。
「保健室行こ、ね」
午後の競技が始まってすぐ、その生徒は腹痛を訴え始めた。
急いで食べたのがいけなかったのか、それとも暖かくなってきたせいで弁当が傷んでしまっていたのか。あるいはぱらつく雨のせいで下がった気温に、身体が冷えてしまったのかも知れない。
「保健係、誰だっけ?」
生徒たちが、目で探す。
おずおずと手を挙げたのは、ハルユキだった。
まさか、こんなときが来るなんて思わなかった。
高校生ともなればみんな自分の体調管理には気をつけていたし、体育祭で熱中症になる生徒も滅多にいない。
名前だけの係でたいした仕事はない、そう思って引き受けたのだった。「歌うこと以外は協力する」そう思っていたことも影響していただろう。
「わたしも一緒に行くから、ついて来て」
御木元がそういってくれたときには、正直ほっとした。
なにしろ相手は女子だ。どう扱っていいものやら皆目見当もつかない。
ハルユキはまるで壊れ物を扱うかのようにそっと肩を抱いて、御木元と一緒にその生徒を保健室に送っていった。
グラウンド中央で行われている競技そっちのけで、ハルユキのクラスの生徒たちは誰もが心配そうに彼女の後ろ姿を目で追っていた。
「あっ」と、誰かがいった。「ねえ、次のリレーどうする?」
リレーというのはこのすぐあとに行われるクラス対抗男女混合400mリレーのことだ。そしていま保健室に向かってじわじわと歩を進めている彼女は、そのリレーに出場する予定になっていた。
「どうするって……」
応援席に残された生徒たちは、互いの顔を見合わせていた。
陸上部の競技大会ではないのだから、棄権という手はないだろう。とりあえず誰かが代わりに走って、競技として成立すればいいのだ。
そして出来ることなら、腹痛に苦しむ彼女と同じくらい足が速くて、白組に得点をもたらしてくれるといい……。
そんな子、いるかな?生徒たちはそれぞれに考えをめぐらせていた。
あの子は午前中に他の競技に出ちゃってるし、あの子はこのあとの競技に出るし……。
そうやって、ふとボードを見上げた一人がいった。
「城ヶ崎さん、出ちゃえば?」
そのひと言で、みんなが振り向いた。
いくつもの視線を受け止める城ヶ崎の目が見開かれた。
「わた……、わたし?」
状況がまったく飲み込めない城ヶ崎をよそに、彼女を取り巻く生徒たちは勝手に盛り上がっていた。
「そうだよ。城ヶ崎さん、個人種目ぜんぜん出てないし」
「うん、足速そうだし、いいんじゃない?」
「それだけ足長いんだから、本気出したら絶対速いって」
おそらく、こんな素敵なボードを描いた城ヶ崎に競技でも活躍の場を与えたいという、純粋な心遣いもあったのだろう。
城ヶ崎さんはがんばった。
あんなお母さんがいても、ううん、それは別としてもこんなにすごい絵を描いてくれた。がんばった人は、ちゃんと評価されるべきなんだ……。
保健室から急いで戻ったハルユキは、城ヶ崎本人そっちのけで話が進められていく様子に当惑していた。
みんな、城ヶ崎のことを思っている。
しかしそれが、当人にとっては甚だ迷惑になることもあると、ハルユキは知っていた。
その証拠に、城ヶ崎は卒倒しそうな勢いで首を振っている。
「む、無理だよ、そんなの。わたし、足遅いし、迷惑かけちゃうよ」
秋山を除く誰よりも背が高い彼女が、誰よりも頼りなく見えた。
「代理なんだから、遅くったって誰も文句いわないから」
それなら別の誰かでいいじゃないか、という意見は誰からも出なかった。
——断っちまえよ。
城ヶ崎を囲むまるで檻のような人の輪の外から、ハルユキは思った。
本人が嫌だと思っていることを、無理矢理やらせることなんてないんだ。
——オレって、薄っぺらいな……。
とも思った。
歌いたくないから歌わない。声を聞かれたくないからしゃべらない。そんな自分を無理矢理城ヶ崎に重ねて、やりたくないことはやらなくていいと正当化しようとしている。
みんなの期待に、誰かの想いに応えること、応えようとすること。
それは正しい。
一方で、無理強いは良くない。
それも正しい。
しかしそれを、オレは自分を正当化するための方便として使おうとしていないか?
だっていま、「ほら、呼び出しかかってるから早く」と背中を押されていく城ヶ崎の姿を見て、自分はなにもいわずにいるじゃないか。
本当に自分が正しくて、胸を張れるのなら、「嫌がってるんだから他の奴が出てやれよ」といえばいいのに。
自分の浅はかで、仄暗い性分を嫌というほど見せつけられて、ハルユキに出来るのはただうつむくことだけだった。
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