第28話 初めからがんばったりしなきゃいいのよ

 グラウンドの興奮をそのまま持ち込んだような教室が耐えられなくて、ハルユキは早々に昼食を終えた。

——早食い競争が種目にあったら、1位取ってる。

 そんな皮肉なことを思った。

 午前中のプログラム、ハルユキもいくつかの種目に出て、それなりにがんばりはした。しかしそこでもたいした活躍ができたわけではなく、白組に貢献できたかといわれるとそうでもなかった。

——結局、なにやったって中途半端なんだよ。

 保護者たちも昼食をとりにいったん引き上げてしまったらしく、グラウンドにはほとんど人影がなかった。

 踏み荒らされた白線や幾重にも重なる足跡は、まるでいまもそこで透明な生徒たちが戦っているかのようだった。

 そんな様子を見るともなしに眺めながらグラウンドの隅に植えられた桜の木のところまで来ると、唐突にハルユキを呼ぶ声がした。

「瀬下くん、よね」

 その声は、唐突ではあったもののどこか遠慮がちで、声をかけることが憚られるとでもいうようにおずおずとしていた。

「このあいだは、ごめんなさいね。ちょっと、気分が悪くて……」

 その気分が悪いってのは、酔っ払っててってことか。ハルユキは怒りがこみ上げるのを感じた。

 桜の木の陰から声をかけてきたのは、城ヶ崎の母親だった。

——あんなことしといて、なんでノコノコ顔出せるんだよ。

 城ヶ崎の母親にしてみれば、もう一度学校に顔を出すとすれば体育祭の今日しかなかった。

 体育祭なら、どんな親もおおっぴらに学校に来られる。あくまでも体育祭を見に来たという体で、偶然を装って先日啖呵を切ってしまった担任を見つけ、なんとか謝ろうと目論んだのだった。

 その目論見がまんまと成功したのはいいが、当の担任は——本当のところはどうであれ——先日のことなど意にも介していない様子で、それどころか身体の心配までされてしまった。その上、「もしなにかあったら」といくつもの相談先を教えてもらい、しらふの母親は情けなさが極まって木の陰で縮こまっていたのだった。

 そんなことは露ほども知らないハルユキにしてみれば、厚顔無恥もはなはだしい母親がまたしても学校に乗り込んで来たのかと、怒りの炎を燃え上がらせるばかりだった。

 しかし、ふと、その本当の火元に気づいて、炎は勢いを失った。

 ハルユキは、その怒りが自分の不甲斐なさから来ていることを悟ったのだった。

 先日、酩酊した城ヶ崎の母親と向き合ったとき、ハルユキはほとんどなにもいえなかった。ただ拳を握りしめるばかりで、いいたいことはすべて、御木元にいってもらってしまった。

 その悔しさ、情けなさが、いまの怒りの火種になっていることに唐突に気づいてしまったのだ。

 勢いを失った炎の上に、城ヶ崎の母親の言葉がふわりと舞い降りた。

「あの子ね、なにやってもダメなのよ。わたしと同じで」

 ため息交じりにいう。

「小さい頃からぶきっちょで、そのくせ背ばっかり大きくなっちゃって。好きなことっていったら、絵を描くくらいしかないの。でもそれだって、上手い人なんていくらでもいるし、あの子の絵なんてたいしたことないでしょう。なのにあの子ったら、絵ばっかり描いて……」

 やっぱり似てるな、とハルユキは思った。文具店や、先日教室に現れたときの様子とはうって変わって、こうして心細げに自分の肘を抱えている様子にはやはり娘である城ヶ崎アユミの面影があった。

 城ヶ崎が、「いつもあんなふうなわけじゃない」といっていたのは、あながち嘘ではないのかも知れない。

「絵なんか描いてたって、なんにもならないんだから。いつか挫折するなら、初めからがんばったりしなきゃいいのよ」

 まるで自分に言い聞かせるように、彼女はいった。その目はひたすらに、自分の汚れた爪先を見つめている。

——そんなの、わからないじゃないか。

 あの日、城ヶ崎の母親が帰ったあとで、ハルユキは手を伸ばせば届くところに未来があることを知った。自分とは別のところにあると思っていた世界が、すぐそこにあることを知った。

——だったら、城ヶ崎だって……。

 そういいかけた言葉は、吹いてきたやけに湿った風とともに消えた。

 生徒の熱気が失われた隙を突くように、空からわずかな水滴が落ち始めていた。

 そのとき、「午後の競技を始めます。生徒のみなさんは、応援席に着いてください」という放送が入り、校舎の中から胎動とも思えるような音が聞こえてきた。

 ハルユキは、「じゃあ、行きます」というのが精一杯だった。

 酔っ払った大人にどう対峙すればいいのかわからないのと同じくらい、泣きそうな大人の女性になんと声をかければいいのか、ハルユキにはわからなかった。

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