第27話 そんなことになるくらいなら
まるで生徒たちの熱気に退けられてでもいるかのように、曇り空からグラウンドに雨粒が降りてくることはなかった。
天気を心配していた生徒たちも、競技が始まってしまえば上空を覆う雲のことなどすっかり忘れてしまい、午前中のプログラムは次々と進んでいき、残すところは昼休み前の合唱だけとなった。
どの色も全体で歌うのはほぼ初めてだったが、そこは合唱祭ではなく体育祭だ。音程の確かさやハーモニーよりも、応援歌として声量が大きければそれで良かった。
音楽科の教師——半田——によれば、以前はこの高校にも合唱祭があったという。しかし、教育改革という名の下に行われたカリキュラム再編によって授業のコマ数が削られ、それを補うために学校行事が削減され、合唱祭は体育祭に吸収された。
いや、本来なら単に消えてなくなるはずだった。
合唱祭は体育祭以上に練習時間が取られる。いわゆる受験勉強以外の幅広いことを学ぶのも高校の存在意義のはずだったが、世間はなかなかそれを許してくれない。
だから受験勉強を圧迫するような行事は、ないに越したことはない。
そういったせめぎ合いの中で、学校側がなんとか捻り出したのが体育祭の中で合唱を行うという離れ業だった。
当初は否定的な意見も多かったものの、数年続ければ実績となり、何年も続ければ伝統となる。
やがて、その高校の特色となり、地域の住人までもが楽しみにするようになった。
ただそれを、楽しみにできない生徒がここにいた。
ハルユキは応援席にキチンと並んで立ち、全力で口パクを遂行した。
大きな口を開けていたし、なんなら肩を上下させもした。
確かに声を出してはいない。しかし、それだけだ。
手を抜いてはいないし、心を込めもした。
そんなものは言い訳に過ぎないし、横に並ぶクラスメートが、「やっぱりコイツ、歌ってない」と責めるような眼差しをしているのもわかる。
——でも、ダメなんだ……。
対立したいわけじゃないし、波風を起こしたいわけじゃない。むしろ問題を起こしたくないからこそ、口パクを貫くのだった。
声を出せば、どうせ嗤われる。
表立って嗤われなくたって、必ずどこかでバカにされる。
そうなれば、いずれきっとぶつかり合うことになる。
——そんなことになるくらいなら、初めからオレ一人が嫌われていればいい。
体育祭が近づくにつれて、クラスの結束は高まっていた。
競技の練習や準備、ハルユキのクラスではボードの制作もあった。それらを通じてお互いを知り、距離が縮まり、ひとつになっていったのだ。
そしてさらに、ハルユキの存在があった。
誰も、ハルユキを避けたりはしない。疎ましそうな目を向けるわけでもない。しかしそれでも、そこにハルユキがいると空気が変わる。
まるで、魚の群れに小石を放り込んだように。
みんなの心だけが、ハルユキから離れて教室の反対側に固まってしまう。
怯えているのは、ハルユキの方なのに。
それでも何匹かは、群れを離れて泳いでいる者もいる。
たとえば秋山がそうだ。
秋山はハルユキのことも、自分自身のことも気にせず悠然と教室の中を泳いでいるように見える。
いまこのとき、合唱のさなかにも、秋山はウサギの模様が描かれたタオルを首に巻いている。肩を揺らし、近くに立つハルユキの耳を聾せんばかりの大声で歌っている。
上手くは、ない。
公正に評価すれば、下手だ。
それでも、秋山はそれを気にするふうもない。
だって、おまえはとにかくデカい声で歌えって半田先生もいってたじゃん。下手なのは、まあしょうがないじゃん。その歌声は、そんなふうにいっているようだった。
合唱を見てもらったとき、音楽科の半田は笑いながら、「さすが筋肉の塊、声がデカい」といっていた。そして、「音程の方は、まあ気にせず、君はとにかく響く低音で全体を支えて」とも。
秋山はそれに応えて、朗々と歌っていた。
いいな、と思う。
あんなふうに堂々としていられるのは、いいなと思う。
しかしそれが、自分にはない資質だということもハルユキにはわかっていた。
——陰か陽かでいったら、明らかに陰だものな。
歌声に包まれたまま、少し諦めたようにハルユキは思った。
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