第25話 じゃあ、いいんじゃないかな
自分のコンプレックスをからかわれることほど、腹の立つことはない。しかも、立場を利用されてのことならなおさらだ。
——こういうの、アカハラっていうんじゃないのか。
本来のアカデミックハラスメントはまったく違う意味だったが、それでもハルユキは胸の中でそう反抗した。それが精一杯だったからだ。
教師相手に、「うるせえ!」だの「なんだと!」だとの言い返すだけの根性はなく、ただ自分の腹の中でグツグツと不満を煮えたぎらせるしかないのだった。
それはおそらく顔に出てしまっていたはずだが、音楽科の半田はそんなことはまったく意に介していないようだった。
「じゃあさ、ここ出る?」
半田は嬉々としてもっと上、もっと上と鍵盤を叩いていった。
音程とともに半田のテンションも上がっていったが、それと相反するようにハルユキの眉間の皺は深くなっていった。
「いやあ、ありがとう」
満面の笑みで鍵盤の蓋を閉じながら、半田はいった。
「君、おもしろい楽器持ってるよ。大事にしてね」
それだけいって、半田は音楽室をあとにしようとした。
取り残されそうになったハルユキは、狐につままれた気分だった。
初めは怒られるのだろうと思った。
「どうして歌わないんだ」とか、「一生懸命やれ」とかいわれるんだろうと。
ところが「おもしろい楽器だ」といわれて腹が立ち、あろうことか教師にからかわれるのかと身構えていたら、当の教師は「ありがとう」といって去っていこうとしているのだ。
ハルユキは思い切り揺さぶられた気持ちをどうしていいかわからず、思わずその背中に声をかけてしまった。
「ちょっと、先生」
「ん?」
振り返った半田は、「どうかした?」とでもいわんばかりの顔をしていた。
「終わりですか?」
「え?」
半田はハルユキがなにをいっているのかわからない様子でしばらく黙っていたが、ようやく「ああ」というと、ハルユキに楽譜を手渡した。
「そうだった。これを渡しておかないとね」
渡された楽譜には赤ペンでメモが書きつけてあり、それは合唱をする上での注意点のようだった。
「ごめんごめん。このまま帰ったら君が僕に怒られてたみたいに思われちゃうもんね。だからこの楽譜持って行ってもらおうと思ってたんだった」
ということは、半田はハルユキが歌っていないことには気づいているのだ。そしてクラスの生徒たちも同様であることにも。
「怒らないんですか?」
「なんで?」
「オレ、歌ってないんですよ」
「うん、まあ、歌いたくないでしょ?」
「歌いたくはないですけど」
「じゃあ、いいんじゃないかな」
「いいんですか?」
本当に歌わなくていいんですか?クラスの連中には、特に御木元には嫌な顔されてますけど?
「だって君、歌好きでしょ?」
お互いに「なにをいっているんだ?」という顔で、少しのあいだハルユキと半田は見つめ合った。
——だってオレ、まったく歌ってなかったんだぜ?
音楽の教師の前ですら、クラスみんなで歌いましょうって曲ですら歌っていないのに、どうしてそんなこといえるんだ?
「君さあ、口パクしてるあいだ、ずっとリズム取ってたでしょ」
いいながら、半田は長い指でハルユキのクラスがさっき歌った曲のリズムを取って見せた。
ハルユキ自身は、自分がリズムを取っていた覚えはなかったが……。
「あの曲、36小節目で変拍子入るんだよね。みんなあそこでテンポが崩れるの。だからよくあんな曲選んだなあと思ってたんだけど、案の定ボロボロだったよね」
ハルユキが広げたまま持っている楽譜のちょうどその場所を指さして、半田は笑った。
「だけど君はあそこでテンポが乱れないんだよ。あれ?と思って2回目も3回目も見てたんだけど、やっぱり乱れない。で、声は出してないけど口パクの方もズレてない。
てことは、こりゃ相当歌ってるぞと思ったんだ」
確かにあの部分ではみんなテンポが乱れる。ハルユキはそれを漠然と感じているだけだったが。
「歌が好きだと逆にさ、みんなと合わせられない、合わせたくないって子もいるよ。ましてや、屋外だろ。なんの反響もしない、音響的に最悪なところで、歌いたくはないよなあ。
僕だって外でピアノなんか弾きたくないもの。外で弾いたピアノの音、聴いたことある?さみしいよお。痩せ細っちゃって痩せ細っちゃって、かわいそうになる」
そういってピアノを撫で回す半田の姿はコミカルではあったが、あながち冗談とも思えなかった。
「で、まあ君が歌わないいちばんの理由は、その声なんだろうけどさ」
ハルユキの身体に、少しだけ緊張が走った。
「気にするなって、いうと思っただろ?」
ハルユキはおずおずとうなずいた。
「バカいうな。気にしろ、思い切り気にしてくれ。気にかけてくれ。その楽器は欲しくて欲しくてたまらない人がいる。
昔は去勢してでもその声を手に入れようとする人がいたくらいだ。いまじゃ法律で禁止されてるけど、逆にいえば法律で禁止しなければいまでもそうする人がいるくらいのものなんだ。だから大事にしてくれ」
「いや、オレそんなつもりはないんですけど」
自分はただ、自分の声を聞かれるのが嫌だっただけだ。それを笑われるのが……。
「ペドラッツィーニのバイオリン」
「はい?」
「つい数年前のことなんだけどね、アメリカである男性がバイオリンをリサイクルショップに持って行ったんだ。自宅の倉庫を整理していたら古びたバイオリンが出てきて、自分は弾かないからいらないって。
リサイクルショップは埃だらけのそのバイオリンを15ドルで引き取ったらしいんだけど、店主がなんとなく鑑定に出してみたら、ペドラッツィーニが作ったバイオリンだった。鑑定額はおよそ20万ドル……」
ハルユキはペドラッツィーニという名前は聞いたこともなかったが、その額だけは理解できた。
「価値っていうのはさ、理解されてはじめて意味を持つんだ。たとえそれを持っていても、価値を見出していなければ当然それは無価値になる。
いまの君にはその声は無価値かも知れないけど、僕ら音楽屋からしたらとんでもなく価値があるよ。だから大事にしてもらえたら嬉しいな」
「でもこんな声、世間じゃ笑われるだけですよ……」
つい、本音をもらしてしまった。
しかし、半田は驚くほど強い声でいうのだった。
「そんな世間なら捨てちまえ」
その声に、ハルユキは顔を上げた。
「君が持ってる楽器は凡愚がどんなに泣き喚いても手に入らない。君の声は君にしか出せないものだ。それを笑うような世間ならこっちから願い下げにしろ」
半田は、確信に満ちた言葉を紡いだ。
「と、僕は思うよ」
まるで別人のように、半田は飄々と音楽室を出て行った。
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