第21話 その判断が間違っていたとしても
そこにいた誰もが詰めていた息を吐き出すのと、御木元がぺたりと座り込むのとはほとんど同時だった。
座り込んだ御木元の方に行けばいいのか、それとも椅子の上で縮こまっている城ヶ崎の方に行けばいいのかみんなが迷っている一瞬に、城ヶ崎が御木元に駆け寄った。
「ごめんなさい、御木元さん。ごめんなさい」
それがなにに対する「ごめんなさい」なのか、城ヶ崎本人にもよくわからなかった。
母親の数々の言葉のことか、自分の代わりに御木元に母親と対峙させてしまったことか、あるいはあの母親の存在そのものか……。もしかしたら、自分の存在に対してだったのかも知れない。
「こ、こわかった……」
自分に抱きついている城ヶ崎の肩越しに窓の外を見つめながら、放心したように御木元がいった。
夕陽に照らされていても、その顔が血の気を失っているのがわかる。
「すごいじゃん、御木元さん。かっこよかったよ」
「さっすが、クラス委員」
「やばい、わたし惚れそう」
口々にいいながら、女子たちが御木元と城ヶ崎のまわりに腰を下ろす。まるでもっと近くに、もっと同じ高さの目線でいたいというように。
その声に、城ヶ崎は聞き覚えがあった。
——体育倉庫の裏で話してた子たちだ……。
まだ呆然としている御木元は気づいていないようだったが、その子たちの言葉にはあのときのような揶揄する調子は含まれていなかった。
その口調にはまるでアスリートを称賛するような響きがあった。新記録を出した陸上選手、最後のバッターを三振に打ち取った投手、試合終了間際に逆転のゴールを決めたバスケット選手……。
実際には決勝点を決めたのではないにしても、担任という切り札が到着するまで、御木元は城ヶ崎を守り抜いたのだ。彼女たちの称賛は決して裏表のあるものではなかった。
しかしその称賛を集めた事象は、それで終わりという類いのものではなかった。
なにしろ、その相手は城ヶ崎にとっては母親なのだ。
御木元をはじめとする生徒たちは、ここであの酒臭い大人を撃退すればそれですむ。しかし、城ヶ崎本人にとってはそれで終わりではない。
家に帰れば母親がいる。城ヶ崎から家庭の事情を聞いたことなどなくても、どんな家庭かおおよその見当はついてしまう。
そのことに思い至って、御木元の目がにわかに焦点を結んだ。
「城ヶ崎さん、今日うち泊まる?」
御木元の言葉には、それだけで伝わる勢いと切迫があった。
「ううん、大丈夫。お母さん、いつもあんなふうなわけじゃないし……」
「お父さんは?」
誰かが、おずおずと訊いた。
「うち、お父さんいなくて」
城ヶ崎の言葉に、みんなが担任を振り仰いだ。
「児童相談所があります」
放たれた言葉に、御木元が気色ばんだ。
——それをいうの?いま、この状況の城ヶ崎さんに?
しかし、御木元が抗議の声を上げるより早く、老教師は言葉を継いでいた。
「ですが、児童相談所が動いてくれるのを待たなくたっていいんです。そこにいられないと思ったら、どこへだっていいんです、いつでも場所を移しなさい。もし頼れる人がいたら、その人のところへ一目散に駆け込みなさい」
——学校に相談しろとか、わたしにいいなさいとか、いわないんだ……。
かえってそれが、御木元には信頼に足る態度のように思えた。
「大人だって、上手に立ち回れないときもあります。お母さんは、もしそうできるなら、落ち着いたらまた学校に来るなり、連絡してくれれば結構です。
しかし、城ヶ崎さんはまだ高校生です。その判断が間違っていたとしても構いません。すぐに行動しなさい」
中学生のとき、教師たちはいったものだ。「困ったことがあったら、先生に相談しなさい」
御木元自身はいじめられてはいなかったものの、イジメの相談をした生徒たちがどういう扱いを受けたかは知っている。
「ふざけてただけじゃないかな?」「悪気はなかったんじゃないかな?」「あなたにも反省すべき点はあったんじゃないかな?」
そんな言葉で壁に、床に、廊下に塗り込められていく悲鳴たち……。
——この先生なら、きっとそんなこといわないんだろうな。
現にこの教師は、逃げろといっている。決して「ひどい母親だ」とか、「君はかわいそうだ」などと決めつけているわけではない。ただ、「もし耐えられない状況にあるなら、逃げろ」といっている。
それが正解とも、最善ともいっていない。自分にそれをはね除ける力がないのなら、いったん断ち切れといっているのだ。
ああ、そうか。と御木元は思った。配信でホラー映画を観ているときと同じなんだ。
そのホラー映画が怖くて怖くて仕方ないなら、一時停止ボタンを押せばいいんだ。そこでいったん立ち止まって、落ち着いてから再開するなり、それきりにするなりすればいい。無理をして最後まで付き合う必要はないんだ。
この場にふさわしくないおかしな連想に、御木元は我ながらくだらなくて笑ってしまった。
「ほんとに大丈夫?」
「うん、それよりみんなに……、迷惑をかけてしまって……」
城ヶ崎はうなだれた。
「そんなことないよ」
「むしろわたしがお母さん怒らせちゃったんじゃないかって、そっちの方が心配」
周囲の女子たちが次々と声を上げる。
「もし、ホントにもしだよ、家にいるのヤバいって思ったら、わたしたちに連絡して」
「いつでもうちに来て」
「何時でもいいから電話して」
「うち、今年からお兄ちゃんが独り暮らし始めたから、部屋空いてるし」
うん、とうなずいた城ヶ崎が、ふいにハルユキを振り向いた。
「瀬下くんも、ありがとう」
思いもよらぬ言葉に、ハルユキはうろたえた。
「いや、オレはなにも……」
——なにもできなかった……。
城ヶ崎の母親に対して雄々しく立ち向かった御木元にも、その後のケアまで考えてくれた担任にも遠く及ばず、状況を見守っていることしかできなかった。
その点ではまわりで見ていた他の生徒と変わりはなかったが、それでもことの始まりからその場にいたのは自分だった。
にもかかわらず。
——なんにも、できなかった……。
「瀬下くんがいてくれなかったら、わたし、ダメだったと思う……」
「ダメってなにが?」とハルユキが思っているあいだにも、御木元が怪訝な顔を向けてきた。
その表情に気づいて、城ヶ崎が慌てて言葉を継ぐ。
「お母さんが来たとき、たまたま瀬下くんがいてくれて、わたしの絵が下手じゃないっていってくれて。そこに、御木元さんたちが来てくれたの」
ハルユキが目を向けると、そこには御木元をはじめとして驚いたような顔が並んでいた。
様々なバリエーションを見せるそれは、しかし、「アンタ、そういうこというんだ」という共通因数でくくられていた。
しゃべらない奴、人と交わらない奴、そんな定数項に新しい変数が加わって、クラスメートたちの目はハルユキのことを量り直しているように見えた。
「オレはなにも……」
繰り返すその言葉は、先ほどの緊張を引きずっているのか、上手く押し殺すことができずに教室の中に凛と響いた。
——オレって、最低だ……。
自らの耳朶を打つその甲高い声に、ハルユキは嫌というほど自分を意識してしまい、そんな自分が嫌になった。
——みんな、本気で城ヶ崎のことを心配してるのに……。
なのに自分は、自分の素の声がみんなに聞かれてしまったことを気にしている。そんな自分が、なによりも嫌だった。
ところが。
「そうなんだ、ありがとう」
御木元が発した言葉は、ハルユキを大いに揺り動かした。
——なんでおまえが礼をいうんだよ。
「瀬下くんがいてくれたんだ。ありがとう」
「すげー。瀬下っち、MVPじゃん」
——誰だ、その瀬下っちっていうのは?
緊張から解き放されたせいもあったのだろうが、それでも口々に礼をいう言葉に嘘はなかった。
それに耐えられなくなったハルユキは、とっさに担任に話を振った。
「先生、さっきの話、本当ですか?」
その声はまだいつものようには潰せていなかった。
「さっきの話?」
「ゲームばっかりやってた人がって……」
「ああ、あれは半分くらい嘘です」
ハルユキの不自然な声など、老教師のその言葉で吹き飛んでしまった。
——嘘?あれが?
じゃあこの教師は、城ヶ崎を守るためにとっさに嘘をついたのか?
「なあんだ」
誰かがいい、続いて笑い声が起こった。
「先生、やるぅ」
「うまくいき過ぎだよな」
そんな声が、あちこちから上がった。
そうだ。
高校生ともなれば、現実がそんなに甘くないことは知っている。
知ってしまっている。
がんばったからって、報われるわけじゃない。
好きなことを続けていたからって、ものになるわけじゃない。
そんなことを、もうわかってしまっている。
だから、なにに対してもそんなに熱くなれない。
ハルユキ自身もそうだった。
ハルユキは、なにかに打ち込んだことのない自分を知っていた。
城ヶ崎のように、誰かがそばにいることにすら気づかないほど、我を忘れるほど、なにかに熱中したことがない。
だから、そんな城ヶ崎が眩しく見えた。
「ゲーム会社には入ったんですよ。ただ、そのあと辞めまして」
口には出さなかったものの、誰もが落胆しているのがわかった。
いや、落胆というよりは諦念といった方がいいかも知れない。
まあ、そうだよな。そんなもんだよな。
そんなドラマみたいな話が、こんな身近に転がっているわけがない。
しかし、老教師は続けた。
「辞めてから、自分で会社を興しましたよ。コンピュータ関連の小さな会社ですが、アメリカの
「マジか!」
男子生徒の一人が驚いたように声を上げた。
「それってミライ・ビジョン・テクノロジーズですよね?あれ作ったの、ここの卒業生だったんですか!」
ミライ・ビジョン・テクノロジーズの名前は、ハルユキも聞いたことがあった。
自前の工場を持たず、設計のみに専念することによって革新的なコンピュータチップを作り出していることで有名で、ゲームから車の自動運転まで、およそあらゆる分野で使われていると、テレビで紹介されているのを見たことがある。
「すげえ、マジか……。すげえ……」
先ほどの男子生徒は興味のある分野だったのか、いたく感動している様子だ。
——たったの2かよ……。
「六次の隔たり」と、ハルユキは思った。
世界中の人は、すべて6ステップ以内の隔たりでつながっている。それが、「六次の隔たり」と呼ばれる仮説だ。
たとえば直接の知り合いなら隔たりは1、知り合いの知り合い、つまりは友だちの友だちなら隔たりは2ということになる。
ハルユキの頭に浮かんだのはその数字だ。
老教師の話が本当なら、ハルユキとそのAI用半導体を作っている会社の社長とのあいだの隔たりはわずか2、その距離はあまりにも近い。
——こんな近くに、そんな夢を叶えた人がいるなんて。
ハルユキはめまいがする思いだった。
ハルユキにとってだけでなく、多くの高校生にとっては、夢を叶える人間は別世界の存在だ。
もちろん、彼らにも夢はある。
ユーチューバーになりたい、歌手になりたい、eスポーツの選手になりたい……。
小学校の卒業文集に誇らしげに書かれていたその夢は、やがて色褪せ、いつの間にか痕跡だけとなり、いつしか消えかけた文字の上により現実的な言葉が書かれるようになる。
あの大学に行きたい、この企業に就職したい、年収はこれくらい……。
それ自体、決して悪いことではない。それはハルユキにもわかっていた。
しかし、なんだか少しさみしいような、昨日まで本物と思って遊んでいたロボットのおもちゃが急にプラスチックの塊に見えてしまったような、そんな気がした。
——でも、もしかしたら。
ハルユキは思った。
——城ヶ崎もそういう人間なんじゃないか?
自分に、絵のなにがわかるわけではない。それでも、こんな近いところに夢を叶えた実例があるのなら、もう一人くらいそういう人間がいたっておかしくはない。
そして、城ヶ崎アユミはそれにふさわしいような気がしたし、あの母親の存在を考えるにつけ、そうでなくては割に合わないような気がした。
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