第20話 だから、一人じゃありませんよ
城ヶ崎の母親が部屋に入って来たときから、なんとなく違和感を覚えていた。
しかしそれは、学校に親がいるというあたりまえの違和感で、その親がやけにケバケバしい服装であるという当然の違和感で、その服の中から酒のにおいがしてくるというもっともな違和感のはずだった。
だけど、なにか違う。
それだけなら、大人としておかしいというだけですむ。
しかしどこか、まだなにかがおかしいと、ハルユキはぼんやりと感じていた。
それが、「見ていない」という自分の言葉で鮮明になった。
——この母親は、自分の娘のことを見ていない……。
それは教室に入って来てからの視線でもあったし、おそらくは「意識を置く」という意味でもそうだ。
教室に入って来てから、城ヶ崎の母親はやけにくねくねと視線をさまよわせていた。
親が教室に来ることなど滅多にないから、そこらにあるものに目をやるのはめずらしいことではない。自分たちの時代にはなかったものや、その当時から変わらずにあるものなど、興味を引くものもあるだろう。
ましてや城ヶ崎の母親は酒が入っている。視線が落ち着かないのもわからなくはない。
わからないのは、さまよう視線が確実に自分の娘を避けているということだ。
その視線が物理的なものばかりとは、ハルユキには思えなかった。
——だから、城ヶ崎の絵が上手いかどうかもわからないんだ。
御木元と対峙する後ろ姿に、ハルユキはふたたび拳を握りしめた。
「絵は大きなボードにして応援席の後ろに飾るんです。その大きさのままじゃありません」
「はあ?そんなバカバカしいことに娘の時間取らせないでくれる?」
「バカバカしくなんてないです」
「バカバカしいでしょう。そんなことやるくらいなら、もっと役に立つことしなさいよ。だいたい進学校じゃこんな無駄なことやってないで勉強してるでしょ。たいしてレベルの高くない学校なんだから、こんなことしてる暇ないわよ」
御木元は城ヶ崎の母親を向こうにまわして、一歩も退く気配がない。
しかし、相手は大人で、しかも酔って舌が滑らかになっている。一高校生が敵う相手ではなかった。ドアの向こうには身を隠すように何人か生徒の姿が見えたが、それが支えになるとは、到底思えなかった。
実のところ御木元は、せいぜい両足を踏ん張って、崩れ落ちてしまわないようにするのが精一杯だった。
口が渇く、舌がもつれる。上履きの中では足の指が、これ以上ないほど丸められていた。
城ヶ崎のことを悪くいわれて、思わず割って入っていた。しかし、その勢いももう限界だ。心はとっくに根をあげている。
そのとき、教室のもう一方のドアが開いた。
みんなが、それこそ城ヶ崎の母親も、ドアの陰に隠れていた生徒たちも含めてみんながそちらを振り向いた。
そこに立っていたのは、国語の担当であり、このクラスの担任でもある老教師だった。
「城ヶ崎さんのお母さんですね?」
老眼鏡の上からのぞき込むようにして、その教師はいった。後ろに女子生徒を一人従えているところを見ると、彼女が呼びに行ったのだろう。
大人の相手をするのに教師の登場はありがたかったが、腰の曲がったその姿は酔った母親の前ではそれでもやはり頼りなく見えた。
「そうですけど?」
御木元との勢いそのままに、険のある物言いで母親は老教師に顔を向けた。
「わたくし、城ヶ崎さんのクラスの担任をしております藤巻と申します」
「担任の先生ですか。このクラス、どうなってるんですか」
「どうなってる、とおっしゃいますと?」
担任はこの状況を理解しているのかいないのか、呑気に答えた。
「うちの娘に体育祭だかなんだかの絵を描かせて、時間を無駄にさせてるんですよ。それを注意したら今度はわたしに食ってかかるんです」
「ほう?」
「ほう、じゃないでしょ。担任なら注意してくださいよ。娘一人に押しつけるなんて、可哀想じゃないですか」
「えーと」
老教師ののんびりした態度に、城ヶ崎の母親はイライラして鼻を鳴らした。
——だめだ、頼りにならない……。
ただでさえ、授業中に起きてるんだか寝てるんだかわからないような教師だ。こっちがわざと声を潰して朗読しても気にかける様子もない。そんな教師がこの酔っ払いの相手になるわけがない。
ハルユキがそう思ったときだった。
「一人じゃありませんよ」老教師はいった。「娘さん、アユミさんの描いた絵はこのあとみんなで大きなボードに描き写すんです。そりゃもう、クラス総出でね。だから一人で描くなんてことはありませんよ。
いま描いてもらってるのはその下絵です。下絵を描けるのはアユミさんしかいないからと、みんなでお願いしたんですよ。アユミさんの絵にはそれだけの力があって、アユミさんにはそれだけの才能があるということでしょう。みんなでお願いした以上、みんなで協力します。
だから、一人じゃありませんよ」
ゆっくりと、しかしあの母親ですら口を挟めない断固とした様子で、老教師はいった。
「でも、そんなの、みんなでやったって時間の無駄でしょう。みんなでやれば、みんなの時間の無駄だわ。絵なんか描いたって、将来の役になんか立たないでしょう」
「昔の教え子に、ゲームばっかりやってる子がいましてね」老教師は続けた。「親御さんもわたしも、ゲームばっかりやってないでって、よく説教したものですよ。ところが本人は一向に聞く耳を持たなくて、学校にまで携帯ゲーム機を持ち込んで遊んでました」
当時を懐かしむように目を閉じた隙に、母親がいった。
「それで、その子はゲーム制作者になったとかなんとか、そういうお話でしょう?そういうの、いいですから」
「いや、その子はゲーム制作者にはなりませんでしたよ」
「は?じゃあ、なんで……」
「その子はコンピュータ関係の製造業の会社に入って、いまでは三人の子供の父親です。子供たちはスポーツ選手になりたいとか、歌手になりたいとか、いろいろいってるそうですが、彼はなにひとつ否定せずに応援してあげているそうです。自分は好きなことをやって好きなことを見つけられたからだって。立派な父親じゃないですか。
はたから見れば無駄なことでも、なにが本人の人生にプラスになるかなんて、わかったもんじゃありません。アユミさんが絵の道に進まなかったとしても、それが無駄になるとはわたしは思いません」
「でも、学校なんだから、もっと勉強に時間を割くべきじゃありませんか。それに、親子の話に他所の子供が口を挟むなんて、失礼ですよ」
「たいしてレベルの高くない学校なんですから、そのぶん生徒にいろいろやらせてあげたらいいじゃないですか。ひととおりの勉強じゃ見つけられなかった才能が見つかるかも知れませんよ。それにね……」
老人特有の長い眉毛の下から、老教師の双眸が母親の目を見据えた。
「その生徒たちの教室に酒くせえ息で入って来る大人の方がよっぽど失礼だって話ですよ」
老教師がそういった瞬間だけ、まるで周囲の明かりが消えたように感じられた。傾いた陽が教室の中までオレンジ色に染めているにもかかわらず。
腰は曲がったままだ。それを伸ばしたとしても、小柄であることに変わりはないだろう。それなのに、場の支配権は完全に老教師が握っている。ハルユキにはそう感じられた。
「な、なによ。そんなこといって、教育委員会に……」
「わたし、今年で定年なのでね。それこそ無駄だと思いますよ」
はたして城ヶ崎の母親が教育委員会に訴え出る手続きを知っているかどうかすらあやしかったが、それでも老教師の言葉はダメ押しだった。
「まあ、お酒飲んでの失敗なんてよくあることですから、一度お酒抜いてからまた来てください」
にこやかにいう老教師に、母親は「ふんっ」と鼻を鳴らすと、「アユミ、お母さん先に帰ってるから」と教室を出て行った。
母親本人は「足音荒く」といきたいところだったろうが、来客用のスリッパはペタペタと情けない音を立てるばかりで、それも廊下の角を曲がると聞こえなくなった。
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