第19話 あなた、なんなの?

「あーら、楽しそうじゃない」

 教室の入口から届いたその声に、ハルユキは聞き覚えがあった。

 少し鼻にかかったような、なんとなく媚びるような、それでいてどこか人を小ばかにしたようなその声。

 校舎内に親がいる様子には、いつだって違和感しかない。

 違和感しかないが、それにしても、そこに立っていたのは違和感の塊だった。

 赤過ぎる口紅、だらしなく着たスーツ、髪型はただ乱れているのかそのようにセットしているのか判別がつかない。

 ここが学校でなくても、こんな大人はハルユキの知る世界には違和感の塊でしかなかった。

 こんな大人が馴染む世界があるとすれば、それは夜の街くらいしかハルユキには想像がつかなかった。

「お母さん……」

 さっきまでの笑顔が嘘のように消えて、またいつもの自信なげな城ヶ崎の姿が戻ってきていた。

「アユミはいつも男の子と仲が良くていいわね」

 そういいながら歩いてくる城ヶ崎の母親の目は、こちらを見てはいなかった。その目はふらふらと教室の中をさまよい、娘を直視するのを避けているようにも見えた。

 それでも机2、3個分の距離まで近づくと、その目はハルユキを認めた。

「あら、このあいだの子じゃない」

 そしてしばし舐めるようにハルユキを頭から爪先まで眺めると、聞こえるか聞こえないかの大きさで、「ふんっ」と鼻を鳴らした。

「気をつけてね。アユミ、すぐ男の子と仲良くなっちゃうから」

 気をつける?なにをだ?なにをいってるんだ、この人は?

「お母さん……」

 城ヶ崎は抗議の声を上げたが、それは台風の中のロウソクに等しかった。

「で、なに?せっかくお母さんが来てあげたのに、あんたは迎えにも来ずにまた絵なんか描いてるわけ?お母さん方向音痴なの知ってるでしょう。初めての場所に来たら、迷っちゃうわよ」

——そりゃあ、迷うだろうよ。それだけ酒のにおいプンプンさせてりゃ。

 ハルユキは思った。

 城ヶ崎の母親の様子は、酩酊といってよかった。

 その証拠に、声の大きさに抑制が効いていないし、若干だが呂律もあやしい。

「そんな下手な絵描いてたってなんにもならないんだから、家の手伝いするか、バイトでもしなさいよ」

 城ヶ崎はハルユキの目の前で消え入りそうになっていた。実際、西日に照らされた彼女の長い髪は透けて、そのまま消えてしまいそうに見えた。

 それは母親の存在そのものも原因だったろうし、こんな様子で学校に現れるような母親をクラスメートに知られてしまったこともそうだろう。

 あの文具店のような外でならまだしも、学校という誰もが親の存在を忘れ去っている場所で、こんな形で母親の姿を見られてしまうなんて。

 もう、城ヶ崎の心は考えることも感じることもやめていた。

 考えることも感じることもやめてしまえば、なんでもない。

 絵を描くことも、やめてしまおう。

 体育祭のボードは、みんなに謝ってやめさせてもらおう。

 きっとみんな、お母さんと同じで、本気でわたしの絵に期待なんてしていない……。

「ほら、とっとと片付けて。面談あるんでしょ」

「うん……」

 城ヶ崎のその言葉を聞いた瞬間、ハルユキの中でなにかが音を立てた気がした。

——違うだろ。下手な絵って、それは違うだろ。そんなの認めちゃダメだろ。

「下手じゃないと思います」

 それでも大人に、しかも酔った大人に真正面から抗議などしたことのないハルユキにとっては、それをいうのが精一杯だった。

「ああん?」

 城ヶ崎の母親は、睨めつけるようにハルユキを見た。

「あなた、絵の先生かなにかなの?こんな絵描いてても、なんの役にも立たないでしょう。バカみたいなお絵描きなんかしてる暇あったら、子供は勉強か家の手伝いしてりゃいいのよ」

 それも違う。

 少なくともハルユキにとっては、こんな絵は見たことがなかった。

 白い紙に鉛筆一本で描かれているのに、まるで光を放っているかのように見える絵なんて。

 だけど、なんていえばいい?

 城ヶ崎の絵はすごいんだって、絵を見て感動したことなんてない自分が初めてビックリしたほどの絵なんだって、なんていって伝えればいい?

「高校生にもなってお絵描きなんかしてないで、もうちょっとためになることしなさいよ。高校の授業料だって、タダじゃないんだから」

——このババア……。

 城ヶ崎の母親の顔を見れば見るほど、身体の芯の温度が上がる気がした。

——そうじゃないだろ。

 握りしめた拳の中で、爪が突き刺さるのがわかった。

——そんなの、親が子供にいうセリフじゃないだろ。

 ハルユキは大きく息を吸い込み、身体のどこか奥深くにある熱を冷まそうとした。

 冷静になれ。オレがしゃしゃり出たって、他所様の親子関係なんて変わりゃしないんだ。

 そう思い込もうとしたが、肺まで届いた息は逆に熱を帯び、熱せられた言葉がハルユキの口をついて出ようとした。

 それよりほんの一瞬だけ早く、先ほど城ヶ崎の母親が入って来た入口から別の声がした。

「そんな言い方、ないと思います」

 ハルユキが、そしてわずかに遅れて城ヶ崎の母親が声の方を見る。城ヶ崎本人は視線を床に落としたまま動けずにいた。

「城ヶ崎さんの絵、すごく上手いです。だから体育祭で応援席に飾る絵もお願いしました。城ヶ崎さんの絵がなんの役にも立たないなんてこと、ないと思います」

 断固とした足取りで近づいてくるその人影は、御木元ノブコだった。

「なにそれ?体育祭の絵なんて、聞いてないわよ?」

 いうなり、母親は娘を目の隅で睨んだ。

 その眼差しに射抜かれたかのように、城ヶ崎は椅子の上で身を固くした。

「あなた、なんなの?」

 御木元の闖入に少しばかりうろたえながら、城ヶ崎の母親がいった。

「このクラスのクラス委員です。城ヶ崎さんの絵を見ながら、わたしたちはみんなでひとつの曲を歌うんです」

「こんなちっちゃい絵飾ったって、見えないでしょう」

 城ヶ崎の母親はせせら笑うようにいった。

——コイツ、なにもわかってない。

 体育祭で応援席の後ろに大きな絵を飾るのは、この高校の伝統だ。この絵を撮影に来るアマチュアカメラマンもいるという。

 ハルユキ自身も入学してから知ったことだが、保護者へのお知らせにだって書いてある。それは生徒を通じて配布されるプリントだけでなく、保護者連絡用のメールにも書いてあったはずだ。

——なにも見てないんじゃないか。

 そう思ったとき、ハルユキはひとつの事実に気づいて愕然とした。

——この人、城ヶ崎のことを見ていないんだ……。

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