第18話 すげえって思った

 校舎内に親がいる様子には、いつだって違和感しかない。

 高校生のみならず、中学生も小学生も同じような感覚を抱くものだ。ただ小学生の場合には、それが異様に高いテンションとなって表現されるのだが。

 それでも小学生も5年生や6年生ともなれば、親が学校に来ているからといって素直にはしゃいでみせたりすることはなくなり、授業参観はかえって妙な緊張感に包まれることになる。

 ハルユキの高校では授業参観こそなかったものの、入学直後から保護者、生徒、教師の三者面談が始まり、おおよそ一学期のあいだに終わる。

 だからその期間中はポツリポツリと親の姿を校内で見かけることがある。

 自分が親と一緒にいるところを誰かに見られるのは気恥ずかしくもあり、一方で誰かが親と一緒にいる様子を見るのはおもしろくもあった。

 仲よさげな親子、気まずそうな親子、似ている親子、似ていない親子、それぞれの親子模様が見てとれた。

 中には親の都合がつかない家もあったが、その場合には生徒と教師の二者面談となる。実際、仕事の都合がつかない家も少なくなかったし、「もう高校生なんだから」あるいは「まだ1年生なんだから」と積極的に面談を回避する親も多かった。

 ハルユキの親もそんな親の一人で、面談にはハルユキだけが出席することになった。この時期の面談は「高校生活には慣れたか」「困っていることはないか」「だいたいの進路の希望は」という大雑把なもので、ハルユキとしては親に「特になにもないから来なくていい」といっておいたのだった。

 自分一人が「もう少し積極的にクラスメートと交流するように」といわれるならともかく、それが親の耳に入って事態がややこしくなるのは避けたい。

 案の定、担任からそういった話をされ、親を来させないでよかったと胸を撫で下ろしているところだった。

——それも仕事だってのはわかるけどさ。

 担任がしたその指摘はまったくの正論で反駁の余地もない。しかしその指摘が正鵠を射たものであればあるほど、当の正鵠としてはたまったものではないのだった。

——別に問題起こしてるわけじゃないんだし、誰にも迷惑かけてないんだからいいじゃないか。

 そう思っておぼろげなクラスメートたちの顔を思い浮かべると、少しだけ苦い思いがした。それが嘘であることは、ハルユキ自身がいちばんよくわかっていたからだ。

 ハルユキがしゃべろうとしないことで、クラスの輪にはわずかなほころびがある。ハルユキが合唱に参加しないことで、クラスという器には微細なひび割れがある。

 そのひび割れはクラスの個性、すなわち器の模様のようなもので、よくよく目を凝らしてみなければわからないほどだ。

 しかし目に見えないひび割れからも少しずつ水は漏れる。

 表面上は何事もないように見えるクラスでも、いざ応援歌の練習という液体を注いでみれば中身はじわじわと漏れ出して、いつまでも満たされることはないのだった。

——そんなの、オレのせいじゃない。

 十分に自分のせいであることを自覚しながら、ハルユキは面談室から教室に戻った。

 するとそこに、城ヶ崎がいた。

 西日の差す教室で、城ヶ崎は一人スケッチブックに向かっていた。

 ハルユキから見たその様子は、「向かっていた」というよりも「戦っていた」といった方がふさわしいような様相だった。

——絵って、こんなふうにして描くものなのか?

 ハルユキが教室に入って来たことに気づかずに鉛筆を動かす城ヶ崎は、まるでスケッチブックに宿るなにかを組み伏せようとしているようにも見えた。

 城ヶ崎が手を動かすたび、鉛筆の先が紙面を走る音がする。それはスキーが雪原にカーブを切る音にも、かんなが木を削る音にも聞こえた。

 魂を削り出している——ふとそんな言葉がハルユキの頭をよぎった。

 城ヶ崎のその様子を見るまで、ハルユキは絵は紙の上に描くものだと思っていた。しかし、あれは違う。

 なにもない白い紙の上に、ハルユキには見えない魂の形を削り出している。城ヶ崎の後ろ姿越しには絵の一部しか見えなかったが、そうとしか思えなかった。

 ハルユキに気づかず描き続ける城ヶ崎は息を詰めているのか、ときどき大きく吐息を漏らしていた。

 窓から射し込む光を受け空気がキラキラときらめく中で、ハルユキの目には城ヶ崎の姿が神聖なものに見えた。

「瀬下くん……」

 ようやく気づいた城ヶ崎に名前を呼ばれ、驚いたのはハルユキの方だった。それくらい、城ヶ崎の姿に、城ヶ崎の絵に魅了されてしまっていた。

 だから、自分の声を隠すことも忘れてついいってしまった。

「すごいな、それ」

 まるで夢から覚めたような顔をしている城ヶ崎は、「なんのこと?」という表情でスケッチブックに目をやり、ただでさえ大きな目を見開くと、ガバッとスケッチブックの上に覆いかぶさった。

「あ、ごめん……」

 ハルユキは慌てていった。つい見とれてしまっていたが、形としては城ヶ崎の絵を盗み見ていたことになる。

「ううん……」

 そういってゆっくりとのぞかせた城ヶ崎の顔は、耳まで真っ赤になっていた。

「普通に入って来たんだけど、城ヶ崎、ぜんぜん気づかなくて」

「ううん、いいの。驚いただけ」

 真っ赤だった顔色は少し落ち着いたようだが、耳はまだ赤いままだった。

「城ヶ崎も、面談?」

「うん、そうなんだけど……、たぶんもう来ないと思う」

 来ないというのは、おそらく城ヶ崎の親のことだろう。

 その言葉にハルユキが時計を見ると、すでに面談予定の最後の時間は過ぎてしまっていた。

 城ヶ崎の様子がやけに寂しそうに見えて、ハルユキは慌てて話題を戻した。

「それ、体育祭の絵?」

「うん」

「下描き?」

「下描きっていうか、コンペに提出する用の。金曜日、締切だから」

 今日が水曜日だから、締切は明後日ということになる。となれば、もうだいぶ完成に近づいているはずだ。

 そう思うと、ハルユキはどうしても城ヶ崎が描いていた絵が見たくなった。

「見せてもらってもいいかな?」

 城ヶ崎は少しのあいだ目を伏せて、逡巡している様子を見せた。

 しかし一度唇を固く引き結ぶと、彼女は「うん」とうなずいた。

 その表情とは裏腹におずおずと差し出されたスケッチブックを開いて、ハルユキは「おぉ」とも「うぅ」ともつかない声を漏らした。

 女神、としかいいようのない女性像が、そこに立っていた。

 真っ白いローブをまとい、ゆるやかに両手を広げたその姿は、まさに女神だった。

 文具店で城ヶ崎が「女神を描こうと思って」と話しているのを聞いたとき、ハルユキはなんとなくもっと勇ましいものを想像していた。剣や鎧を身に着け、戦いに赴くような女神を。

——だって、女神っていったら普通そうだろ?

 ハルユキの「普通」がやけに偏っているのは、多分にゲームに登場する女神の影響だった。

 ゲームの世界では、だいたいの女神は戦乙女で、ワルキューレであったりもする。

 しかし、こうして見るとこれはまさしく女神だ。

 すべてを包みこむような慈愛に満ちた表情をしながら、それでいてその目には強い力が宿っている。

 ハルユキは応援席の後ろに立てかけられた女神の絵を想像した。白組の生徒たちを包み込むように両手を広げる女神……。

 そうか、この腕の角度は応援席の生徒たちを右から左まで包み込むようになっているんだ。

「すげえ……」

 知らず、声にしていた。

 その瞬間だけは、自分の声の高さも忘れていた。

「ほんと?」

 それを聞いた城ヶ崎は、ただでさえ大きな目を見開いていた。

「ほんとに、そう思う?」

「うん」

——おまえくらい絵が上手けりゃ、飽きるほど褒められてるだろうに。

 城ヶ崎はまるで生まれて初めて褒められたかのように、顔をクシャクシャにして喜んでいた。

「すごいよ。オレ、絵なんてわからないけど、この絵はなんか、すげえって思った」

 我ながら、稚拙な感想だった。

 構図がどうたら、曲線がなんたらと、喜ぶ城ヶ崎に具体的に伝えてやりたかったが、あいにくハルユキにはそんなことはなにひとつわからなかった。

 しかし、とにかく「すげえ」と思った。それだけは伝えたかった。

「なんか、オレ、絵とかぜんぜんわからないんだけど、この絵はすげえ。ハエ叩きでぶっ叩かれたハエみたいな気分になった」

「それ、褒めてるの?」

 城ヶ崎の大きな瞳が、ハルユキの顔をのぞき込んだ。

 失敗だった。

 人の絵を褒めるのに、ハエとは。

「いや、ハエって自分がハエ叩きでぶっ叩かれるとは思ってないじゃん?そこに急に、なんかわからないけどデカいものでぶっ叩かれたら、とんでもなく驚くじゃんか。だから、そんな感じと思って」

 自分のバカさ加減を呪いながら、ハルユキは説明を試みた。

 その必死な様子に、城ヶ崎は笑った。

「そうだね、ありがとう」

 いいながら、口とお腹を押さえる。

「いやほんと、褒めてるんだって。城ヶ崎の絵、すごいって」

 いえばいうほど、城ヶ崎は身をよじって笑った。

——コイツ、こんなによく笑うんだ……。

 ハルユキは、彼女が笑う様子を意外に思った。ハルユキが知っている城ヶ崎は、いつも自信なさげな様子で、その長身にもかかわらず、これが「儚い」ということかとハルユキに思わせていた。

——暗い奴かと思ってたけど、そうでもないんだな。

 身体を2つに折って笑う城ヶ崎を見ながら、ハルユキは思った。

——実は、結構いい奴だったりして。

 ハルユキの声を気にせず、少なくとも気にした様子を見せず、楽しそうに笑う城ヶ崎を見て、そう思った。

 ハルユキは高校入学以来初めて肩の力が抜けたような気がした。

「あーら、楽しそうじゃない」という背後からの声を聞くまでは。

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