第17話 絶対許さないから

「御木元さん、これ……」

 ただそれだけいって城ヶ崎が差し出したハンカチは、少し震えていた。

 それを見た瞬間に、御木元は悟った。

——聞かれてたな……。

 なにをいえばいいのかわからないのは、御木元も同じだった。

 こんな姿を見られ、本当は情けない陰キャがコケおどしの陽キャを演じているのを知られてしまった。

 自分の中で、感情が死んでいくのがわかった。

 それはなにかを諦めた人間が見せる、一種の防御反応だった。

 その感情を胸に抱えたままではいられないとき、人の心は初めからそれがなかったかのように振る舞う。

 だから城ヶ崎を見上げる御木元の目には、光も感情も宿っていなかった。

 城ヶ崎は、その目を知っていた。

 夜明け前の自宅のキッチンで、その目を見たことがあった。

 中学生のとき、母が深酒をするようになってからしばらく経った頃、トイレに行こうと起き出した城ヶ崎はキッチンの椅子に座る母親を見かけた。

 灯りもつけずに座る母親の顔は暗がりで薄ら青く、テーブルの上にある包丁の刃だけが硬質な輝きを放っていた。

 包丁を見つめる母の目には、なんの感情も浮かんでいなかった。

 青と黒だけで描かれた絵のようなキッチンの様子に、城ヶ崎は怖じ気づき、手で口を押さえながら部屋に戻った。

 翌朝、何事もなかったように母は仕事に行き、城ヶ崎は寝不足のまま学校に向かった。

 学校にいるあいだも、家に帰ってからも、時間が経てば経つほど、自分が見たものが現実だったのか確信が持てなくなっていった。

 それでも、あの目だけは忘れられない。

 自分と包丁以外にはなにも存在しないかのような、あの母の目だけは。

 暗闇で城ヶ崎を見る御木元は、同じ目をしていた。

 あのときは、なにもいえなかった。

 なにもいえなかったけど、なにも起こらなかった。

 なにも起こらなかったけど、なにかが変わってしまった。

 あれから母は深酒を超えて痛飲するようになり、知らない男の人が家に来るようになった。

「わたし、ノブコっていうの」

 唐突な自己紹介に、城ヶ崎はうろたえた。

 御木元の下の名前がノブコだというのは知っている。

 最初の自己紹介のときから、明るくて、元気で、常にみんなの中心にいる人だと思っていた。だからその名前も、いちばんに覚えてしまっていた。

「中学生のときのあだ名、なんだと思う?」

 今度はクイズ?

 なにか考えがあって体育倉庫に足を踏み入れたわけではない。しかし、こんな会話はあまりにも予想外だった。

 しかし御木元は答えを期待しているふうではなく、ただあふれてくる言葉を吐き出しているだけだった。

「モブコよ、モブコ。身長も、体重も、足のサイズまでぴったり平均。特徴がなくて、どこにでもいそうで、いなくても同じ、その他大勢のうちの一人。だから、モブコ」

 モブという言葉は、城ヶ崎も知っていた。

 物語の中心となる主要人物と違って、セリフもなくほぼ背景と化している存在。

 恋愛ドラマの主人公がカフェでお茶している後ろで、ピントすら合わず、ガヤガヤと環境音を発するだけの存在。パニック映画なら大事故に巻き込まれて、路上で右往左往するだけの有象無象。

 それが、モブだ。

 御木元がそうだったなどとは、城ヶ崎にはにわかに信じられなかった。

「でも、御木元さん、そんなふうには……」

「見えないでしょ。見えないよね?見えないようにしてきたもの」

 御木元はもう一度洟をすすった。

「わたし、ほんとにモブだったの。中学のときはずっと。

 わたしだって、みんなの輪に入りたかった。明るくて、目立ってて、みんなに注目されて、先生にも可愛がられてて、そういう人がうらやましかった。そういう人になりたかった。

 でもそんなふうになれないのわかってたから、そういう人に近づきたいって思ってたの。

 だから中学1年生のとき、文化祭の打ち上げだってその子たちがカラオケに行ったとき、ついて行ったの。

 そうしたら、カラオケ屋さんの入口でなんていわれたと思う?」

 このクイズにも、城ヶ崎は答えることができなかった。

「なんでおまえがいるの?っていわれたのよ、半笑いで。今日はわたしたちの集まりだから、御木元がいてもつまんないよって。だっておまえ、モブだしって。

 そこにいた子たち、みんな大爆笑で、それ以来モブコって呼ばれるようになった」

 まるで他人事のように、御木元は続けた。

「わたしの行ってた小学校ね、地域によって進む中学がバラバラなんだ。わたしは中でも少人数しかその中学に行かない地域に住んでたから、最初は戸惑っちゃって。

 そうこうしてるうちにそんなことがあって、そのまま中学3年間を過ごしたの。

 だから、今度はあえて誰もわたしのことを知らない高校に行って、逆にはっちゃけてやろうって思ったの。昔のわたしを知らなければ、きっとできるって思って。

 だからあの子たちがいってたの、あってるのよ。陰キャが無理して、高校デビューを目論んだのよ。

 でも、やっぱりダメみたい。モブはモブ、スクールカーストの上位になるなんて、最初から無理だったのよ。

 クラス委員に選ばれたのだって、本当に思ってたの。『えー、わたし?』って。本当はプレッシャーで吐きそうだった。あのあと、わたしトイレにいったの覚えてる?本当に吐いてたのよ。バカみたいでしょ。

 できもしないことやろうとするから、そういう目に遭うのよ」

 自嘲気味にいって、御木元はふたたび黙り込んだ。

 そんな彼女になにもいってあげられない自分が、城ヶ崎は情けなかった。

 御木元とは、特に親しいわけではない。むしろ、自分と違って自信があるそぶりの御木元を、遠く感じていた。

——わたしなんて、大好きな絵だって自信がないのに……。

 城ヶ崎はたくさんの絵を描いてきた。しかしそれは現実から目を逸らすためで、いくら描いても自信になどつながらなかった。

 御木元は、変わろうと努力した。少なくとも、変わろうと思った。それを嗤うのは違うと思った。

 しかし城ヶ崎は、それを伝える言葉を自分の中に見つけることができずにいた。

「ごめんね、城ヶ崎さん。体育祭の絵のこと、わたしが勝手に押しつけちゃったよね。モブコのくせに、えらそうに。迷惑だったよね、一方的に描いてよなんていっちゃって」

 違う、と思った。

 こんなときにどんな言葉をかければいいかはわからない。

 だけど、それは違う。それだけは違う。

 だからそれを、そのまま言葉にした。

「違うの……」

 御木元は相変わらず光を失った目のまま、訝しげに顔を上げた。

「絵のことは、うれしかったの。わた……、わたし、絵は好きだけど、お母さん以外に褒められてことなくて。あ、でも、お母さんに褒められたのもずっと昔のことで。だから、御木元さんに、絵上手いから描いてっていわれて、ほんとはすごくうれしくって。

 御木元さんが陽キャのふりしてくれてなかったら、そんな機会もなかったから、御木元さんが陽キャのふりしててくれてよかったなって……、思って…………」

 勢いにまかせていった言葉は、尻すぼみになって消えた。

 やっぱり、思ったことの半分も伝えられない。

 伝えたかった。

 絵を描けと、絵を描いていいといわれてどれだけうれしかったか。

 無価値と思っていた自分の絵に価値を見出してくれたことにどれだけ感謝しているかを、それに応えようとどれだけがんばっているかを。

 ふいに、御木元が笑った。

「陽キャのふりって」

「あ、ご、ごめんなさい……」

 背の高い城ヶ崎が、みるみる縮んでいくように思えた。

「ううん、じゃあ、わたしの陽キャのふりも少しは役に立てたんだ」

 城ヶ崎は返事の代わりに、小刻みにうなずいた。

 何度も、何度も。

 房になった髪が、弾むように上下した。

 その様子に、御木元はまた笑った。

 アイプチが取れていることも、頬にファンデーションの筋がついていることも、気にならなかった。

「ちょっと借りるね」

 そういって差し出されたままのハンカチを受け取り、目に押し当てた。

「やっばい、マスカラ全部取れちゃった」

 もう一度ハンカチで目をこすると、御木元はスカートのホコリをはたいて立ち上がった。

「城ヶ崎さん」

「はい」

「今日のことは、なかったことだから」

 そういう御木元の顔は、城ヶ崎が知っている自信に満ちた顔だった。

「ここでのことを誰かにしゃべったら、絶対許さないから」

 城ヶ崎よりはるかに背が低いはずの御木元が、やけに大きく見えた。

「はい……」

 城ヶ崎は見上げられているのに、見下ろされているかのように感じた。

「それと、あなたの絵を悪くいうような人がいたら、わたしが絶対許さないから」

「うん」

 握りしめたハンカチは、御木元の体温をうつしてほんのりとあたたかくなっていた。

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