第16話 陰キャだからそんなところにいるんでしょ
長い長いあいだ、そこに座っていた。
どのくらいそうしていたのか、御木元にはわからなかった。
もしかしたら、誰にも見つからずに何年も経っていて、あの子たちはもう卒業してしまっているかも知れない。
ネットニュースに「行方不明の高校生、奇跡の生還」なんて見出しが躍って、少し怒られるけどみんなでわたしの無事を喜んでくれたりして。
そんなものが空虚な妄想であることは、自分でもわかっていた。
しかしそんなものにすら縋らずにはいられないほど、彼女の心は千々に乱れていた。
——きっと、わかってたんだ……。
いつかこんな日が来ることが、こんなふうに化けの皮が剥がされるのが。
いや、まだ化けの皮は剥がれていない。
ボロボロになって、向こう側が透けて見えるくらいだけれど、それでもまだ剥がれてはいない。
わたしはクラス委員の御木元ノブコだ。
明るく、楽しく、いつだって堂々と振る舞う、クラスカーストの、いやスクールカーストの上位にいる人間だ。
カーストのトップとはいわない。そんな大それたことまでは望まない。だけど上位には、上の方には、せめて真ん中より上にはいたいんだ。
——そうでなくちゃ、なんでわざわざこんな高校に入ったんだか……。
「御木元さん……」
体育倉庫の暗がりで、胸の痛みを自分の身体ごと抱きしめているとき、名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
——幻聴だ。
ここから、体育倉庫から、学校から逃げ出してしまいたいと思うからこそ、自分追い詰める声が聞こえるのだ。
御木元はなおのこと強く膝を抱きかかえた。そうしていればふたたび自信を持って、化けの皮こそが本当の自分であると思い込めるようになるとでもいうように。
しかし声は執拗に彼女の名を呼んだ。
「御木元さん……」
——ああ、もう終わりだ……。
『陰キャだからそんなところにいるんでしょ?』
『無理して明るいふりしてたから、暗闇成分補給してるんじゃない?』
『カビとか食べて生きてんの?ウケるんだけど』
中学のときに聞いた声が自分を嗤うのが聞こえるような気がした。
きっとさっきの子たちが自分を嗤いに来たんだ。
こんなところでうずくまっている姿を見られたら、わたしの化けの皮なんてフライパンの上に落ちた水滴のように消し飛んでしまう。
「御木元さん」
観念して、断念して、絶念して、御木元はそっと目を開けた。
体育倉庫の入口に、外の光を背にした黒い影が立っていた。
心まで縮こまった御木元の目にはその姿はあまりにも大きく映り、わずか数歩で踏み潰されてしまいそうに思えた。
——いっそ、その方がいい……。
踏み潰され、すり潰されて、消えてなくなってしまえたらどんなにいいか。
その方が、クラスメートから「あの子、ホントはさ……」などといわれながら過ごすよりもずっといい。
——だからどうか、わたしを……。
「御木元さん」
呼びかける声は、御木元から少し離れたところで遠慮がちに足を止めた。
おそるおそる開いた御木元の目に、茶色いローファーの爪先が映った。
入口に見えた影と同じく、そのローファーも大きく見えた。
ゆっくりと顔を上げると、思っていたよりずっとずっと高い位置に、ローファーと同じくらい茶色い目があった。
その目がおさまる顔の横からは、ゆるやかにカールした長い髪がたれ下がり、入口から射し込む光を受けて輝いていた。
「城ヶ崎さん……?」
そういったのと同時に、洟をすすり上げてしまった。涙は拭いたつもりでいたけれど、おそらくその跡までは消せていないだろう。
——こんなことなら、ファンデーションなんて塗ってくるんじゃなかった。
もしかしたら、さっき目をこすったせいでアイプチもとれてしまっているかも知れない。
こんな顔、誰にも見られたくなかった。
——でも、もういいや……。
倉庫裏の声がいっていたとおり、張り切り過ぎた。無理をし過ぎた。
取り繕って、ごまかして、装ったところであんなふうに思われるのが関の山だ。
もうなにもしたくない。
「わたし、その、体育祭で使うボードを見せてもらおうと思って……」
入口に立つ城ヶ崎は、言い訳をするようにいった。
城ヶ崎は自分が描くことになるかも知れない体育祭のボードを確認しに来ていたのだった。
数字の上では、大きさは知っていた。しかし、数字で知っているのと実際の大きさを感覚としてわかっているのとではまるで違う。
——まだ自分が描くことになるかはわからないけど……。
それどころか、自分が描いていいのかどうかもわからなかったが、それでも城ヶ崎は見ておきたかったのだ。自分が想いをぶつけることになるかも知れないそのボードを。
御木元が体育倉庫にいることは知っていた。
鍵を貸してもらおうと職員室に行き、そこですでに御木元が体育倉庫に行っていると教師から聞いたのだ。
そして来てみると、倉庫裏から話し声が聞こえた。
初めはなにを話しているのかわからなかったその会話は、「御木元」という名前を聞いた瞬間、まるでカメラのピントが合うようにはっきりした。
それはすぐに、御木元のことだと、御木元の陰口だとわかった。
「人の陰口なんかいっちゃいけません」
そうは思わない。いや、そうは思うが、それが現実的でないことくらいは城ヶ崎にもわかっている。
誰だって、誰かの陰口くらい叩く。
そうやってガス抜きをすることで、本人の前では愛想よく振る舞えることもある。
だから城ヶ崎は、それを気にせず体育倉庫入り口に向かった。自分が聞かなかったことにすれば、それですむ。
忘れてしまえばいい。
——忘れるのは、得意だし……。
小学生の頃に別れた父親のことも、母親に捨てられてしまったスケッチブックのことも、忘れたことにしてしまえば、なんということはない。
そう思って、耳に入ってこようとするザラザラとした言葉たちを意識の外に置こうとした。
しかしそのとき、見てしまった。見えてしまった。
体育倉庫の入口で、凍り付いたような顔で後ずさっていく御木元の姿を。
まるで夕方にひまわりが首を垂れるように、雨に打たれた綿菓子が溶けていくように、ゆっくりと、御木元の姿は体育倉庫の闇に飲まれていった。
それを、見なかったふりはできなかった。
そこまでは、強くなかった。
だから闇に溶けていった御木元のあとを追って、体育倉庫に足を踏み入れてしまった。
どうすればいいのか、なんといえばいいのかもわからないまま。
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