第12話 まだ途中だから
まったく、忙しいったらない。
自分で決めたこととはいえ、こうまで多忙だとは。
それに、こうまでエネルギーを消費とするものだとは、思ってもみなかった。
体育祭の配布用資料を運びながら、御木元ノブコは深呼吸した。
そりゃあ中学と高校とでは、やることなすことぜんぜん違うのは予想してた。だけどここまでとは、そんなのわかりっこないじゃない?
それに、なんなのよ、あのわがままで身勝手で自己中な連中は!
中学のときは、みんな率先してクラス委員に協力しているように見えていたのに。まるで引き寄せられる砂鉄のように、中心にある磁石が動けばみんなもついてくるように見えたのに。
提案すれば文句をいうくせに、意見があるかと訊けば押し黙る。そんなのどうしろっていうのよ。
体育祭だって、とにかく協力しないことがかっこいいみたいに思ってる連中もいる。
——バカなんじゃないの?
学校の行事としてやることが決まってるんだから、がんばればいいじゃない。協力すればいいじゃない。
好きじゃない人がいるのもわかる。体育が苦手な人がいるのもわかる。
だけどそんなの、誰だってそうじゃない。
誰にだって苦手はある。やりたくないこともある。だけどみんなといるなら協力するのがあたりまえだし、苦手なら克服しようとすればいいじゃない。
特にあの瀬下って奴はなんなの?
歌いたくないとか、やりたい奴だけやればいいとか、そんなこといってたら集団生活なんて送れないのよ。
下手でもなんでも、がんばればいいし、努力すればいい。なのにどうして、がんばる前に諦めて、努力する前に投げ出すの?
御木元のそんな思いを受けて、両手で握りしめたA4の配布用資料にはわずかな皺が寄っていた。
——いけない、いけない。そんなこと、みんなには気づかれちゃいけない。
「体育祭の資料持って来たよ」
努めて明るく、大きな声で、御木元は教室のドアを開けた。
「おーっ」という声とともに生徒たちが振り向く。
だから逆に、その動きからズレたものが余計目につく。
さっきまで後ろを向いておしゃべりしていたのに体ごと振り返って注目する者、顔だけをこちらに向ける者、一瞥だけで背を向けてしまう者。
それでも、全体としてみればクラスのみんなは協力的だ。
配付した資料を確認している様子を教壇から見ていると、それが手に取るようにわかる。
「じゃあ、体育祭の出場種目決めちゃおう」
ざわつく教室の中に、御木元の声が響く。
その声に、ハルユキは顔を上げた。
御木元のことは、相変わらず気に入らない。しかし、だからといって合唱以外のことにまで非協力的な態度を取るつもりはなかった。
——合唱だって、邪魔しようってわけじゃないんだ。
教室の前の方からは、御木元が黒板に体育祭の種目を書く音が聞こえてくる。
自分が歌わないことに触れずにいてくれるなら、見かけだけは協力的に振る舞うこともできる。ぶつかり合って、意見を戦わせて、自分の正当性を認めさせたいという意図など、ハルユキには露ほどもないのだ。
それどころか、体育祭で歌わないのはただのわがままであることも、重々承知していた。
だからせめて、合唱のことに触れずにいてくれるならという条件付きで、他のことには協力をするつもりでいた。
——城ヶ崎のこともあるしな。
先日、文具店で出会った城ヶ崎は、まるで消え入りそうなほど自信がないように見えた。
あれから何度か、城ヶ崎の絵を見る機会があった。
画用紙やスケッチブックにしっかりと描かれたものではなく、ノートやプリントの隅にイタズラ書き程度に描かれたものが、たまたま目に入ったのだ。
その絵は、ハルユキには衝撃だった。
——イタズラ書きで、あのレベルかよ……。
一度など、ブロックメモにボールペンで描かれた絵を見て印刷されているのかと、そういう商品なのかと思ったほどだ。
——下描きもなしだもんな……。
正直、自分に絵心がないのはハルユキにもわかっていた。しかし、あの絵が上手いのはわかる。
そんな絵を描く城ヶ崎が、「みんなの気に入らなかったらどうしよう」と、思い悩んでいるのだ。
もしかしたらそれは、才能に恵まれた、絵を描くべく生まれてきた人間の贅沢な悩みなのかも知れない。
しかしそれなら、その悩みは絵心のない自分なんかよりはるかに重く大きいものなのだろう。そもそも絵など描けない自分には、そんな悩みなど持ちようもないからだ。
どんな絵を描いたところで、「下手くそ」といわれるだけで、関心すら引かないだろう。注目されること、期待されることは、それだけの重荷をともなうのかも知れなかった。
——アイツも、いろいろ抱えてんだな。
高1女子にしては背が高過ぎること、ビックリするほど絵が上手いこと、母親がヤバそうなこと……、そういったいろんなことがないまぜになって、城ヶ崎の自信なさげな後ろ姿を形作っているのかも知れない。
彼女の背中をなんとなく眺めながら、ハルユキは思った。
だから間接的とはいえ、その城ヶ崎の邪魔をするようなことはしたくない。できれば、少しなりとも助けになれたらと、思わないではなかった。
「個人出場したい種目があったらその種目に丸をつけて提出してください」
ハルユキの物思いをさえぎるように、御木元の声が教室に響いた。
目を上げると、御木元が教壇から城ヶ崎に声をかけているところだった。
「ボードの方の進み具合はどう?」
その声はあくまでも明るく、リーダーそのもののといった調子だった。
「が、がんばって……ます」
なんで敬語なんだよ、とハルユキは思った。
御木元にあの感じで迫られたら、ただでさえ自信のない城ヶ崎のことだ、そりゃあおずおずもする。だけど自分の得意な絵の話なんだから、もうちょっと堂々としててもいいだろう?ましてや、あれだけの絵を描く才能に恵まれているんだし。
——その点、オレはな……。
ハルユキはなんとなく、自分の手を見つめた。特に特徴があるわけでも、なにかできるわけでもない自分の手を。
その手は城ヶ崎のように目を奪う絵を描けるわけでもなく、秋山のように力強いわけでもない。では他はどうかといえば、御木元のようにみんなを引っぱっていける才能があるわけでもなく、クラスの人気者になれるような素地もない。
唯一特徴らしい特徴といえば声だったが、こちらは才能というにはあまりにもコンプレックスに過ぎた。
——もったいないじゃんか。
いつものように目の前で背中を丸めている城ヶ崎に、ハルユキは心の中でいった。
——御木元だって他のみんなだって、おまえの絵に期待してるんだ。それだけ才能を見込まれてるんだ。才能のある奴は堂々として、「わたしにまかせろ」っていっていいんだよ。
いや、いうべきなんだよ。ハルユキは思った。
——見ろよ。秋山なんて、これだけみんなが体育祭だ、合唱だと騒いでるのに、堂々と寝てるんだぜ。
ハルユキが目をやると、秋山は机に突っ伏して寝ていた。その様子は居眠りというより、もはや熟睡の域だった。
「ねえ、下描きでもいいから見せてよ」
誰か、近くの席の女子がいった。
コンペは来週だ。確かにそろそろ進み具合を知りたいところではあったが……。
「ま、まだ途中だから……」
城ヶ崎の丸めた背はさらに縮こまるように見えた。
「えー、いいじゃん。わたしたちもどんな感じなのか知りたいしさ」
そうそう、と同調する声はまるで波のように彼女を取り囲んで大きくなっていき、中心にいる城ヶ崎は溺れてしまいそうだった。
——そんなにせっつかなくても、いいじゃないか。
そう思っている自分に、ハルユキは少し驚いていた。
数日前、文具店で彼女と会う前は、そんなこと思ってもみなかった。数日前の自分だったら、クラスの他の連中と同じく「下描きでもいいから見てみたい」と思っていたか、あるいはまったく無関心だったかのどちらかだったろう。
——アイツ、みんなが思ってるほど自信ないんだぜ……。
高校生特有の、クラス一丸となっているとき特有のノリで城ヶ崎に下描きを見せろと迫る生徒たちの奔流に、ハルユキはほんの少し苛立った。
だけど、なにができる?「やめろよみんな、困ってるじゃないか」なんて白々しいセリフ、オレがいったって誰も聞きっこないし、第一そんな寒すぎるセリフをいえる度胸のある人間なんているわけがない。そもそもオレは声を出したくなんかない。
だから自分が思っていたほぼそのままのセリフを耳にしたとき、ハルユキは心底驚いた。
「ほらほら、城ヶ崎さん困ってるじゃない」
声の主は、教壇に立つ御木元だった。
「そんなに催促しなくたって、完成したら見せてくれるわよ、ね?」
その声に、さっきまで盛んに城ヶ崎に下描きを見せろとせがんでいた声が止んだ。それこそ、潮が引くように。
ああ、これがカースト上位ってやつか。ハルユキは思った。
いつの間にか形成されるクラス内カースト。その上位にいる人間の声は絶対だ。
いまこのクラスのカースト上位には、明らかに御木元がいる。まるで慣習法のように、カースト上位の人間がいったことは上意下達、下々の者にまで適用されるのだ。
「ええー」などといいつつ、先ほどまで城ヶ崎を取り囲んでいた生徒たちがバラバラになっていき、 城ヶ崎だけが波打ち際に取り残された貝殻のように、ポツンと自分の席に座っていた。
そのイメージに、ハルユキは自分でも驚いた。
——絵のことを考えていたからかな。
これまで、そんな詩的なイメージを心に浮かべたことなどなかった。
——城ヶ崎は、そんな風景を見たらどう描くんだろう?
あれだけ上手に絵が描けるのに、それにまったく自信を持てないでいるように見える彼女は。
そのとき、ふと先日見かけた城ヶ崎の母親の姿が頭に浮かんだ。
——城ヶ崎がああなのは、母親のせいなのか?
どんな親子にも、それぞれの個性があるし、事情がある。しかしあの母親の様子は、ハルユキにはとても普通とは思えなかった。
昼間、というかもう夕方近かったが、それでもそんな時間から酒のにおいをさせている親がいるだろうか?
自分の母親が立派だとか、いい母親だというつもりはない。ハルユキだって反抗期はあったし、いまでもその名残のようにときどき反発することもある。
だから小学校の低学年みたいに、「僕のお母さんはいいお母さんです」などと胸を張るつもりはないし、親を比べるものではないこともわかっている。
しかし、それにしても、だ。
——あれはないよな。
それは青臭い正義感、高校生特有の潔癖症に似た清廉さなのかも知れない。もしかしたら中二病の後遺症という可能性もあった。
それでもハルユキには、あの母親の存在が城ヶ崎の上に垂れ込める暗雲のように思えてならなかった。
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