第11話 みんなの気に入らなかったらどうしよう
学校に友だちがいれば、それは普通の光景だったかも知れない。
待ち合わせをして、落ち合って、どこかへ出かけて、他愛のない話をする。学校外でクラスメートの姿を見ることに、なんの不思議も抵抗もない。
しかし、ハルユキは違った。
少なくとも高校に入ってから、友だちと呼べるような存在はおろか、話をしたことのある同級生もほとんどいなかった。
だから街で城ヶ崎アユミを見かけたとき、ハルユキは不思議な感覚にとらわれた。
自分の知っている街に、店に、自分の知らない人間がいる。
いや、それならほとんどすべての通行人がそうだろう。だからこの違和感は、知っているようでまるで知らない人間が、よく知っている場所にいるという何重にも絡まり合った違和感なのだった。
もしかしたら、それが城ヶ崎アユミでなかったら、ハルユキは気づきもしなかったかも知れない。彼の中では、ほとんどのクラスメートは顔のないただのモブキャラだった。
クラスメートたちそれぞれを個別の存在と認めたら、各人の存在を尊重せざるを得なくなってしまう。交流を持たざるを得なくなってしまう。そうなったら、会話をせざるを得なくなってしまう。その交流の行き着く先は、「アイツの声、変なんだぜ」という嘲笑だ。
だからみんなをモブとして、壁や床や、石ころや雑草と変わらない存在として、意識して、意識しないようにしてきた。
そんな中で、御木元や秋山は別だ。
あいつらは嫌でも目に入ってくるし、見えないふりをするには目立ちすぎる。
御木元はクラス委員としてしょっちゅうみんなの前に立っているし、例の一件のこともある。あれ以来なにもいってこないけど、腹の中ではなにを考えているかわかったもんじゃない。わかっているのは、どうせ同じようなカースト上位の連中と「アイツの声ってさあ……」なんて陰で嗤ってるってことだ。
秋山はとにかくデカイし筋肉だし、どこにいたって目に入る。悪い奴じゃなさそうだけど、如何せん世界が違いすぎる。アイツは男らしさの塊みたいな奴、それにひきかえこっちは男だか女だかわからないような声の持ち主ときた。
——あいつらは、とにかく目立つんだよ。
目立つという意味では、城ヶ崎アユミも負けてはいなかった。
180センチメートルに迫る長身は、どこにいたって目に入る。さらには長くゆるやかにカールした髪の毛と、茶色い瞳はどこか日本人離れしているように思われた。
美人だな、と思わないではない。
しかし、だからどうしようという気が起きるわけでもなく、それどころかハルユキは目の前の彼女から見つからないようにコソコソと逃げ出そうとしていた。
「あ……」と声を上げたのは城ヶ崎の方だった。
ショッピングモールに入っている文具店の一角。切れてしまったシャープペンの芯を買いに来て、「カラーのシャー芯なんてあるんだ」とおもしろがっていろんな色を試しているときだった。
マジかよ。緑とか、青とか、紫とか、色もそうだけどこっちの方が普通のシャー芯より書きやすいじゃん。軟らかいからか?
そんなふうに思いながら試し書きをしているとき、ふと目を上げると他の客より頭ひとつ抜きん出ている女の子がいた。
それが同じクラスの城ヶ崎アユミであるとわかるには、数秒かかった。
最初は、「デカイな」という印象、次に「可愛いな」という感想、そして「同じクラスの奴だ」という警戒。
彼女は思いつめたような表情で、画材のコーナーで立ち尽くしていた。絵を描く道具のことなどまったくわからないハルユキだったが、彼女が真剣な面持ちで品定めをしているのだけはわかった。
そんな彼女の端正な横顔を目の隅で見ながら、ハルユキは足早にその場を去ろうとした。
——邪魔しちゃ悪いしな。
学校の連中と関わり合いになりたくない、という思いばかりではなかった。
視線の向こうに画材とは別のなにかが見えているような、そんな様子の彼女をそっとしておきたい。そんな思いも確かにあった。
だから彼女に気づかれないように、首をすくめるようにして狭い通路を進んだ。
これまでもこの方法で、友だちとは呼べないクラスメートを何度もやり過ごしたことがある。もともと背が低いハルユキだ。少し猫背にでもなれば、丈高な陳列棚の陰に隠れるのは簡単だった。
ところが、相手は180センチ近い身長の持ち主だった。普通より一段高いところから、陳列棚を乗り越えて視線を送り込んでくる。
棚の向こうで不自然に首をすくめている人間がいれば、かえって彼女の目を引くのだった。
そしてそこには、見たことのある姿があった。
特に関わりがあるわけではなかったが、ハルユキは自分の席の真後ろでもあり、ましてや先日の一件から強く印象に残っていた。
だから意図せず、「あ……」という声が出た。
その声は決して大きくはなかったものの、静かな文具店の中をまっすぐにハルユキの耳まで進み、彼の足を止めさせるには十分だった。
思わず振り向いたハルユキが見たのは、声を出したことに自分でも驚いた様子の城ヶ崎の顔だった。
薄く唇を開いた彼女はハルユキを見つめてから、ようやく「瀬下くん……」とだけいった。
ハルユキは棚越しに、「ああ」とぶっきらぼうに返すのが精一杯だった。
立ち去ろうとしていたのを見抜かれているのは明らかだったから、気まずくて城ヶ崎の目を見られない。しかし幸いなことに、身長差のある二人のあいだでは、ハルユキが少し伏し目がちにしていれば自然と目を合わせずにいることができた。
「瀬下くんも、お買い物?」
居心地の悪い間があったあと、城ヶ崎がぎこちなく訊いた。
「うん」
おまえのおかげでぶち壊しだけどな、と思いながら、ハルユキは最小限の言葉で応えた。声を低く潰すことを忘れずに。
ハルユキの地声は、あのときすでに彼女には聞かれてしまっている。それでも、それをおおっぴらにしたくはなかった。
「城ヶ崎は?」
『さん』を付けなかったのは、ハルユキのせめてもの強がりなのかも知れなかった。
城ヶ崎はそんなことより、ハルユキが自分の名前を覚えていてくれたことの方に驚いたようで、両の眉がぴくんと上がった。
「あ、わ、わたしは、体育祭のコンペに出す絵を描くから、その、絵を描く道具を……」
しゃべりながら、城ヶ崎は両手をわたわたと動かした。
その姿に、ハルユキは不思議と安心した。
——コイツも、人づきあいが上手くないのか。
『苦手』という言葉は使いたくなかった。少なくとも自分は、苦手だとは思っていない。ただ高校に入ってから、上手くできていないだけだ。
「そうなんだ」
そういえば、城ヶ崎は絵が得意なんだった。
彼女の作品を直接目にしたわけではない。ただまわりがそういっているのを聞いただけだ。
それでも、まわりがあれだけ騒いでいたんだし、ましてや体育祭のボードを依頼されるくらいだ。よほど上手いのだろうと察しはつく。
城ヶ崎の手が慌ただしく動いていてくれるのは幸いだった。上下左右に動く手を目で追っていれば、彼女の顔を直視していなくても不自然じゃない。
身長のおかげか、彼女は指も長かった。
小学生時代には、『クモ』とか『ヒトデ』などと悪口をいわれたこともあったが、いまではその細く長い指は、多くの女子生徒の羨望を集めていた。もっとも身長の方は、「あそこまではいらないよね」というのが大方の意見だったが。
その指がヒラヒラと動く様は、まるで空中でなにかを編んでいるかのようだった。
——器用そうな手だな。
ああいう手をしているから絵が描けるのか、絵を描いてきたからああいう手になったのか、絵心がまるでないハルユキにはわからなかった。
「瀬下くんは、なにを買いに来たの?」
立ち尽くしたまま、セリフを覚えてしまうほど繰り返し店内アナウンスを聞いた頃、落ち着かない様子で城ヶ崎が口を開いた。
城ヶ崎本人も、クラスではそれほどおしゃべりな方ではない。しかしハルユキはそれに輪をかけて口数が少ないのだ。というよりも、話しているのをほとんど見たことがない。
会話が自然に弾むはずもなかったが、二人のあいだにある見えない壁を突き破って——とまではいかないまでも、城ヶ崎はその壁をそっと押してみたのだった
「シャー芯」
「そっか」
素っ気ない答えに、つぶやくような返事。
ざわついているはずの店内が、まるで無音であるかのように感じられる時が流れた。
「なんの絵、描くの?」
そのまま黙っているのも居心地が悪くて、今度はハルユキが口を開いた。
「え?」
「体育祭のボード」
瀬下の方から言葉が投げかけられるとは思わなかったのか、次第にうつむきがちになっていた城ヶ崎が顔を上げた。
「あ、あの、女神を描こうかと思って……」
「そっか」と返事はしたものの、なぜ女神なのかはよくわからなかった。
絵なんて、よくわからない。
ダヴィンチやレンブラントを見ればきれいだなとは思うが、ピカソやモディリアニなんて落書きにしか見えない。ましてやポロックやカンディンスキーなど、落書きどころかイタズラ書きだ。もっとも、ハルユキはモディリアニ以下の名前は知っているはずもなく、ただ変な絵と思っているだけだった。
絵が好きな連中、絵が描ける連中は、きっと自分とは別の目を持って、別の世界に生きているんだろう。
「じゃあ」と、立ち去ろうとするハルユキの言葉にかぶせるように、城ヶ崎が言葉を継いだ。
「でも、みんなの気に入らなかったらどうしようと思って」
その顔は、もうすでに自分の絵を無下に否定されたかのような表情を浮かべていた。
そりゃないだろう、とハルユキは思った。
城ヶ崎はよっぽど絵が上手いらしいし、本人が描きたいといったわけではなく、まわりから頼まれて描くんだ。そうやって描いたものを、「これじゃダメだ」なんていえないだろうし、いう権利のある奴もいないだろう。
「大丈夫だろ?」
自分でも驚くほど素早く、言葉がこぼれた。
「……」
城ヶ崎の目はなにかを探すように床をさまよった。
「そうだと、いいんだけど……」
長い髪に隠れて、城ヶ崎の表情は読み取れなくなっていた。
「ダメな奴に頼んだりしないだろうし、気に入らないなら自分で描けっていってやればいい」
ハルユキの目に映る城ヶ崎は、とてもそんなことをいえそうにはなかったが、それ以上の言葉は見つけられなかった。
「うん。ありがとう、瀬下くん」
無理に笑顔を作ろうとしているのがわかって、ハルユキはいたたまれなくなってその場を離れようとした。
そのとき、「アユミ」と呼びかける声が聞こえた。
それは正確には、「アーユミィ」と妙に間延びした声だった。
声の主の方に顔を向けたハルユキは、それが誰なのかすぐにわかった。
——城ヶ崎のお母さんだ……。
年齢なりの皺やたるみがあるとはいえ、城ヶ崎によく似たその顔は美人といって差し支えなかった。
「またあんたは、こんなとこでなにしてんのよ」
高校生が文具店にいることになんの不思議もないし、文具店ですることといえば文具を買うこと決まっているのだが、城ヶ崎の母はそれが納得いかない様子だった。
「もう、ふらふらどっかに行かないでよ。お母さんまだ服見たいんだからさ」
「ちょっと、画材を見たくて……」
「そんなものなくたって紙と鉛筆があれば描けるでしょ」
弘法筆を選ばずというし、城ヶ崎の母親が絵の大家であるならその言葉にも説得力があるのだろうが、ハルユキにはそうは見えなかった。
「あら、この子は?お友だち?」
母親はようやくハルユキの存在に気づいていった。
「うん、高校の同じクラスの瀬下くん」
紹介され、小さく頭を下げる。
母親はさっきまでの険しい顔から一転、上から下まで値踏みするようにハルユキを見てから笑顔を浮かべた。
「あらあ。どうも、アユミの母です。いつもアユミがお世話になってます」
その瞬間、ハルユキは思った。
——酒臭い……。
強すぎる香水と熟柿臭い息に加えて、その微笑みがハルユキに嫌悪感を抱かせた。
嬌笑という言葉を知っていれば、ハルユキの頭にはそれが浮かんだかも知れない。しかしたいして本を読まず、ましてや大人の女性とそれほど接したことのないハルユキに、そんな言葉が思い当たるはずもなかった。
彼の頭に浮かんだのはただ、「嫌な顔だ」という印象だけだった。
「わかったから、お母さん、もう行こ。瀬下くん、じゃあね」
母親の腕をとって歩き出す城ヶ崎の顔は、対照的に泣き出しそうに見えた。
似ているようで似ていない城ヶ崎母娘の両極端な表情にハルユキの頭は占領されて、シャープペンの芯を買うことはすっかり忘れてしまっていた。
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