第9話 あんたが色目使ってるから、わたしの男が逃げるんじゃないの?
スケッチブックに向かう時間が好きだった。
真っ白な紙に、鉛筆一本でなんでも生み出せるのが、彼女には奇跡に思えた。
小学生の頃は自由帳、高学年になってからはノート、中学生になるとお小遣いでスケッチブックとコピックを買った。
コピックのセットは中学生には少し高くて、大切に大切に、それこそ宝物のように扱った。
小学6年生のとき、初めて本気で描いた絵を母親がうんと褒めてくれた。
父親にも見せたがったが、何年も続いていた別居はとうとう離婚へと至り、ついに見せる機会はやってこなかった。
それでも母親が褒めてくれたことがうれしくて、中学生になっても描き続け、平面的な記号でしかなかった絵はやがて立体的になり、ついには奥行きと表情と独特の風合いを得るまでになった。
友だちにも、美術の先生にも褒めてもらえた。
それと反比例するように、母親は彼女の絵を褒めなくなった。絵を見なくなった。
彼女のことを、見なくなった。
家にいるあいだ、母親が見つめるのは酒のビンや缶ばかりになり、新しい男を連れ込んでは夜通し嬌声を上げていた。
幼い彼女は、ただ耳をふさいでうずくまっているしかなかった。
それでも彼女は絵を描き続けた。母親が褒めてくれたから。
描き続けていれば、いつかまたお母さんが褒めてくれる、わたしを見てくれる、そう思ってスケッチブックに向かった。スケッチブックがなくなればノートに、ノートがなくなれば教科書の余白に、彼女は描き続けた。
どんな絵を描いても、どれほどたくさん描いても、母親の目は彼女を見なかった。
そしていわれた。
「背ばっかり大きくなって」
日曜日に昼過ぎまで寝ている息子に、食事のあとの洗いものを手伝わない娘に、つい母親の口をついて出る普通の言葉だ。
まったくもう、うちの子は……。
しかしそこには呆れとともに愛情がある。
彼女の母親は違った。
「あんたが色目使ってるから、わたしの男が逃げるんじゃないの?」
母親の口からは決して出るはずのない言葉だった。
身長が170センチを超えて、着る服を着ればすっかり大人に見える、そんな娘に吐き捨てるように母親はいった。
だが、彼女の心はまだ子供だった。
だから受け流すことも、無視することもできなかった。
だから真正面から受け止めて、吐き出すこともできずに飲み込んで、どうしていいかもわからないままに自分の胸の奥にしまい込んだ。
しまい込んだその言葉は、心の内側からいつまでも彼女を切り刻み続けた。
その痛みを忘れるために、彼女は絵を描いた。
スケッチブックに向かう時間が好きだった。
真っ白な紙に、鉛筆一本でなんでも生み出せるのが、彼女には奇跡に思えた。
優しい母親も、あたたかい家庭も、彼女が望むものをなんでも描き出すことができた。
城ヶ崎アユミは、絵を描くことが好きだった。
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