第8話 わたし、そんな上手じゃないし
「体育祭のボードさ、城ヶ崎さんが描いてくれない?」
城ヶ崎の机に両手をついて、御木元がいった。
身を乗り出すような姿勢になっていることもあり、頭の高さは座っている城ヶ崎と大差ない。その様子はまるでゴリアテに挑むダビデのようだ。ただそのダビデはずいぶんと威勢が良く、一方でゴリアテの方は気弱もいいところだった。
体育祭の当日、生徒たちは自分の属する色ごとに応援席に座る。その応援席の後ろに各色ごとに巨大な絵を掲げるのだ。
ベニヤ板を何枚も組み合わせて作るその絵は、1年生が担当するのが伝統になっていた。
そこには、1年生が担当すればクラスの結束も図れるし、3年生には受験勉強の時間を取らせたいという学校側の狙いもあった。
「城ヶ崎さん、絵うまいじゃん。うちのクラスの代表として描いてよ」
「わ、わたし、そんな上手じゃないし……」
城ヶ崎の細い声は、かぶせるような言葉にかき消されてしまう。
「うそだあ、わたし見たよ。美術の時間さ、城ヶ崎さんの絵、めちゃくちゃ上手だったよ」
その声に調子を合わせるように、まわりの席からも声が上がる。
「見た見た。人物画、描くやつでしょ。めっちゃ上手かった」
「いいなあ。わたし、棒人間しか描けないよ」
「中学でも美術部だったの?」
「アニメのキャラとかも描ける?」
城ヶ崎本人が口をはさむ隙がないほど、まわりの会話は彼女を置き去りにして盛り上がり続ける。
そして彼女の唇が釣り上げられた魚のように開いたり閉じたりを繰り返しているあいだに、「まずはコンペだからさ、がんばってね」という御木元の言葉で、終了してしまった。 わたしが、描くの?体育祭で飾る絵を?
そんな大事な絵を、わたしなんかが描いていいの?
まるでつむじ風のあとに残されたみたいに、城ヶ崎は一人、ポカンと席に座っていた。
確かに、これまでたくさん絵を描いてきた。でもそれは、誰かに見せるためじゃない。彼女はただ絵を描くことができさえすれば、それで満足だった。
描けるものを、描いているだけ。
描きたいから、描いているだけ。
ただそれだけなのに。
だからネットに公開したこともなかったし、コンテストに出したこともなかった。
そこが、自分の世界だと思った。
そこにしか、自分の世界はないと思った。
ただそれだけのために絵を描いてきた自分が、そんな大切な絵を描いていいのだろうか?彼女にはわからなかった。
体育祭で飾られる大きな絵は、学校のホームページや先輩たちのSNSで見たことがある。だからその大切さは、重々承知しているつもりだ。
1年生には入学式を別とすれば初めての大きな行事だし、3年生にとっては最後の体育祭。だから体育祭が終わると、みんながその絵の前に集まって思い思いに写真を撮る。
クラスで、仲間で、友だちと、恋人と……。
そんな大切な絵を、ただ絵が好きだからという理由で描いてきただけの自分が、本当に描いていいのだろうか?
御木元がいっていたように、絵が採用されるかどうかはコンペで決まる。下描きとなる絵を描いて、生徒の投票で決めるのだ。
当然のように、自分のクラスの生徒が提出した絵には同じクラスの生徒が投票してくれる。しかし2年生、3年生はそんなことお構いなしに、自分の好きな絵に票を投じる。だから最終的な結果は、やはり優れた絵、人気を集めた絵が選ばれることになる。
まだ自分の絵が選ばれると決まったわけじゃない。
しかし、そのコンペに提出すること自体、彼女にはなんだかおこがましいことのように思われた。
それに、お母さんはなんていうだろう?わたしの絵が、体育祭で使われるかも知れないなんて知ったら?
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