第6話 なんだよ、この筋肉

 足早に廊下を進んだ。

 ハルユキが怒っているのははたから見ても明らかだったが、その理由は廊下ですれ違う別のクラスの生徒たちには知る由もなかった。

 ハルユキにしても、こんなことで怒っているなどとは知られたくなかった。

 高校生にもなって、合唱の練習に出たくないというのはあまりにもガキ過ぎる。知らなかったとはいえ、体育祭で応援歌斉唱があるのはハルユキが入学前から決まっていたことだし、例年の行事だった。

 決まっているんだから反対してはいけない、そんなふうにも思わない。たとえ何百年前から決まっていることであっても、正当な理由があるなら堂々と反対すればいい。

 問題は、自分でも正当な理由が見あたらないことだった。

 高校生にもなれば、なんでもかんでも自分の思い通りにいくわけではないことくらいわかっている。自分が相手に合わせることもあれば、相手が自分に合わせてくれることもある。

 しかし高校生だからこそ、彼にとってこの声は大問題なのだった。

 そしてその声を、「きっしょ」といわれたのだ。

 正当に近い理由を見つけることができるとすれば唯一そこだけだったが、それにしたっておおもとの原因はハルユキ自身にあった。

 ハルユキがもっと積極的に、あるいは少なくとも合唱の練習に協力的な姿勢を見せてさえいれば、御木元だってあんなセリフは吐かなかっただろう。

 学校行事に協力的ということは、すなわちクラス委員である御木元に対して協力的ということであり、人間は自分の側にいる者に対してそうそう攻撃的になったりしないものだ。

 特にそれが、高校という閉鎖された環境においてならなおのこと。

 高校では、半強制的に人間関係を作らされる。学年、クラス、委員会、席順……。それらの小さな環の中に、否応なしに放り込まれる。

 だから多少の不一致があっても、不協和があっても、事を荒立てたりせずにお互いやり過ごすのがいちばんだ。

 高校という閉鎖環境では、環は和であり、乱さないのがいちばんなのだ。

 先ほどの教室にいた生徒たちのように。いや、御木元とハルユキ以外の生徒たちのように。

 その和を自分が乱してしまった自覚はあった。だけどどうすればよかったっていうんだ?

 これまではその和を乱さないように、目立たないように、いや耳立たないように、息を殺して、声を殺してやってきた。

 それが、あっさりと崩れてしまった。

 そしてそれを呼び水として、御木元のあんな言葉まで引き出してしまった。

 明日からは、「きっしょい声の奴」というレッテルを貼られて生きていくことになるんだ。

 それは間違いなく3年間続く。クラスが替わったってまた同じクラスになる奴はいる。そいつらは新しいクラスでまた同じレッテルを貼りに来る。

 いや、それよりもっと早く、もう明日には他のクラスに宣伝に行くんだろう。明日は土曜日だから来週か、それともグループLINEで今日中に速攻かな。

 御木元の言葉には腹が立ったが、自分のバカさ加減には輪をかけて腹が立った。

 なにもあんなにムキにならなくてもよかったじゃないか。

 ヘラヘラ笑って、ニヤニヤしながら、のらりくらりと退散すれば、それであの場はすんだんじゃないのか。

 ええい、くそっ!

 そんな思いで頭をいっぱいにして廊下の角を曲がった途端、ハルユキは壁にぶつかって跳ね飛ばされた。

 壁?こんなところに?

 いやいや、この角を曲がるとすぐに階段があって、それを下りれば昇降口のはずだ。

 人と目を合わせないようにいつもうつむき加減でいるとはいえ、毎日歩いている校舎内だ。今朝だってここを歩いて教室に来た。半日で構造が変わるなんてことがあってたまるか。

「だ、大丈夫か?」

 尻もちをついたハルユキに、壁が声をかけてきた。

 見上げると、そこにあったのは壁ではなく、山だった。

 山は、屈んでハルユキの方に手を差しのべている。

「あ、ああ……」

 床に座ったまま見上げるその姿は、いつもよりはるかに巨大に見えた。

 柔道着を着たその山は秋城連山の「秋」の方、秋山シゲルだった。秋山の方は、ハルユキがぶつかったくらいではビクともしなかったらしい。

 差し出された手を思わず握ると、ハルユキはまるでクレーンのように引っぱり上げられ、身体がふわりと浮くのを感じた。

 すぐ目の前に立つ形になってあらためて見ると、165センチもないハルユキの顔の前には分厚い胸板があった。

 なんだよ、この筋肉。

「ありがとう……」

 筋肉に圧倒されたわけではなかったが、ハルユキは素直に礼をいった。

「あれ?今日、合唱の練習があるんじゃないのか?」

 ああ、そうだよ。だからオレはそこから逃げ出してきたんだよ。

「オレは、今日はちょっと……」

 ちょっとどころではないことが、ついさっき教室であった。しかし、ここでそれをいってどうなる?

「そうか、じゃあな」

 秋山は軽く右手を挙げて、ハルユキがいま来た方向に歩き出そうとしていた。

 その声は明らかに変声期を経たもので、その体格に見合った低く深いものだった。

「おまえ、部活は?」

 秋山のことを「おまえ」と呼べるほど会話をしたことも、親しくしたこともなかったが、かといって「君」というのもおかしな感じがしたので、ハルユキは「おまえ」と呼んでみた。

 一瞬でも秋山が怪訝な顔をしたり、「おまえにおまえと呼ばれる筋合いはない」などといいかえされたらどんな顔をすればいいか、ハルユキにはわからなかった。

 しかし秋山は気にする様子もなく、振り返った。

「ああ、開始早々、先輩が足折っちゃってさ。今日の昼練、中止になった」

 さっきのサイレンはそれか。

 御木元との緊迫したやりとりの中、わずかに聞こえた救急車のサイレンにハルユキは思い至った。

 しかし、それでか。

 それで練習が中止になったからって、柔道着を着替えもせずに合唱の練習に馳せ参じるっていうのかよ。

「御木元、がんばってるからさ。なにかあったら応援してやってくれよ」

——ああ、コイツ、いい奴なんだ。

 一瞬だけ、秋山は御木元と付き合っていて、そのために行動しているんじゃないのかと思った。

 しかし秋山の屈託のない笑顔を見ていると、そんな考えは消し飛んでしまった。

 それに、同中おなちゅうだしな。きっとコイツは、正々堂々が服を着て、いや、柔道着を着ているような奴なんだろう。

 ハルユキはさっき御木元から感じたものとは違う正義感を、秋山に感じていた。

 アイツのは、なんだか押しつけがましくて、自分が正しくなくちゃいけない感じだ。正義の形を作って、それに合わせて自分を貼り付けている感じがした。

 だけど秋山の正義感は、違った。なんだかそうすることが自然で、その中身に合わせて秋山の形ができているようだと、ハルユキは感じた。

——ああ、そうか。

 コイツのは正義感じゃなくて、正直さなんだ。

 それが柔道を通じて身に付いたものなのか、それとも生来のものなのか、ハルユキにはわからなかったが、いずれにしても自分にない一本の筋を見た気がした。

「じゃあな」

 秋山はハルユキに背を向けると、教室の方に歩いて行った。

「なにかあったら」の「なにか」が自分のことであるのが、ハルユキをひどくみじめな気持ちにさせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る