第5話 きっしょ
数日後、体育祭で歌われる応援歌はハルユキたちのクラスが投票したものに決まり、その練習は主に昼休みの教室を使って行われた。
放課後にも有志が集まって練習が行われてはいたが、やはり部活や委員会活動がある放課後はなかなか集まりが悪かった。
そのため、毎日ではないものの、昼休みには各教室からそれぞれの応援歌が響き渡ることになり、ハルユキはいかに教室を抜け出すかに知恵を絞ることになった。
たどり着いた結論は、とにかく早く弁当を平らげるというものだった。
誰よりも早く昼食をすませ、そこかしこで会話が続いているうちに教室を抜け出す。そして昼休みが終わるまでどこかに身を潜めていれば、誰も自分のことなど気にかけないはずだ。
そのはずだった。
だからその日も、ハルユキはものすごい勢いで弁当をかき込むと、そっと席を立って教室を出ようとした。
耳に入ってくる会話は、どれもこれも応援歌のことばかりだ。「あの子は歌が上手だ」、「あの部分がむずかしい」、そんな会話が蜘蛛の糸のようにハルユキにまとわりつく。
——いい加減にしてくれ。
ハルユキは軽く頭を振ると、開け放たれたままのドアを目指した。
しかし、そこに。
「ねえ、瀬下くん」
歩き続ける足を止めさせるのに十分なほど断固とした声が、ハルユキの後ろから呼びかけた。
「どこ行くの?これから昼練だよ」
振り返ると、あからさまに不機嫌な顔をした御木元の姿があった。
「ちょっと用事」と、くぐもった声でハルユキはいい、ドアを目指そうとした。
応援歌の練習はあくまでも生徒の自主性にまかせられている。「用事がある」という生徒を強制的に参加させる権利は、誰にもないはずだった。
そのはずだった。
なのに御木元の声には、練習に参加させることが自分の義務だとでもいいたげな響きがあった。
「瀬下くん、このあいだもそういって練習に参加しなかったよね。どうして?」
思わず振り返ると、何人かの生徒を背にして、御木元が立っていた。後ろの生徒のほとんどはハルユキの方を見ていなかったが、それでも御木元の側についているのがわかる。不自然な無表情が雄弁にそれを物語っていた。
「瀬下くん、練習に出てるときも口パクだよね。どうして?」
誰も言葉を発しない。
さっきまで昼食をとりながらしていた会話が嘘のように、誰もが一心不乱に壁や床を見つめている。
——おまえらだって、そうだろ?
誰だって、好きこのんで波風なんて立てたいわけじゃない。だから応援歌の練習をサボる生徒がいても誰もなにもいわないし、口パクしている奴がいても見て見ぬふりをするものだ。
こっちもツッコまない変わりに、そっちもツッコまないでくれ。それでうまくやれる。お互いつまらないことには目をつぶって、厄介ごとは避けていく。そうやって平穏は保たれる。
そのはずだった。
そのはずなのに。
ときどき、それを乱す奴がいる。
それが御木元のような存在だった。
陽キャだからって、カースト上位だからって、まるで自分がクラスの意見を代弁しているかのように振る舞う。
——確かにおまえの方が主流派なんだろうけどさ。
主流派だからって、なんでもかんでも思い通りになるわけじゃないだろう?少数派の意見を大切にしましょうって、小学校で習わなかったか?
それが都合のいい言い訳であることは、ハルユキにもわかっていた。
合唱に参加したくない。
もっと正直にいえば、自分の声を聞かれたくない。
そんなものは、わがままであることはわかっていた。
——それでも、少しくらいのわがままはいいだろう?
しかもそれが、自分のコンプレックスに起因するものであれば。
「ねえ、どうして?」
御木元の口調は質問ではなく、詰問だ。なんなら、ここでハルユキと対決することも厭わない。そんな様子だった。
「なんでもいいだろ」
そういうのが精一杯だった。
「よくないよ。みんながんばってるのに、なんで瀬下くんだけサボるの?部活の昼練がある子だって、できるだけ参加するように協力してくれてるんだよ。それなのにどうして?」
教室にはいくつか空席があって、それは主に昼休みにも練習がある運動部の生徒のものだった。そのうちのひとつは秋城連山の一方、柔道部の秋山のものだった。
柔道部期待の星である秋山は、いまも柔道場で汗を流しているのだろう。
とはいえ、その秋山も合唱の練習にはよく顔を出しており、決して上手くはないが低く太い声を響かせている様子を、ハルユキも見ていた。
「合唱なんか、やりたくないんだよ」
たたみかけるようにいう御木元に、ハルユキはそれだけしか返せなかった。
御木元が背にした生徒の中には、「そりゃわかるけど」という顔をしたものもいたが、それをあからさまにしたりはしない。
そりゃわかるけど、やるってことになってるんだしさ……。壁や床を見つめたままの目が、そういっているように感じられた。
「なんでよ、みんながんばってるんだよ」
自分が合唱をやりたくないことと、みんなががんばっていることは別の話だ。
正月の箱根駅伝を見れば、みんながんばってるなあ、えらいなあと思う。だけど自分がやりたいかといわれれば、それは別だ。
なのに、がんばることは無条件に正しい、正しいことはみんなでやるべきだ、そんな一方的な正義感が、正当性が、ハルユキをイラつかせた。
中学のときに目の前で振りまわされたポリコレ棒が、ふたたび振りまわされるのを見る思いだった。
「やりたい奴だけやればいいだろ。オレは歌いたくないんだよ!」
御木元の射すくめるような眼差しに、ハルユキはつい声を荒げた。
教室で腹に力を込めて声を放つのは久しぶり、いや、高校に入ってから初めてのことだったかも知れない。
荒げたはずのその声は、いつものように押し潰すことを忘れたその声は、凛とした響きとなって教室中の生徒の耳朶を打った。
ハルユキの声に、誰もが目をみはっていた。
視野の隅、ひときわ背の高い影は、城ヶ崎だろう。ただでさえ大きな彼女の目は、こぼれ落ちそうなほどに見開かれていた。
——ほら見ろ、こうなるじゃないか。
誰だって、オレの声を聞けばこうなるんだよ。
「こんな声で、誰が合唱なんかしたいって思うんだよ……」
目をそらしたまま、ハルユキはいった。
静まり返った午後の教室に、昼練をする部活の声、他のクラスの合唱の声が様子をうかがうように忍び込んでいた。遠くからは、救急車のサイレンの音までが聞こえてくる。
オレが歌いたくない事情は察しただろう?だから、もういいじゃないか。
これからも口パクでいさせてくれよ。練習にも顔を出すし、体育祭本番だってサボらない。オレも迷惑をかけないようにするから、おまえたちもオレの声には触れないでおいてくれ。
そうすれば、お互いに面倒くさいことにならないですむ……。
「きっしょ……」
ハルユキの開き直ったような、それでいて懇願するような思いを、御木元の言葉が貫いた。
瞬間、頭に血が上るのがわかった。額に汗さえ浮かんでいたかも知れない。それでも目の前の女を殴らなかったのは、まだ理性がはたらいていたからだ。
そのなけなしの理性を振り絞って、ハルユキは足早に教室を出て行った。
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