第4話 本当に、そんなんじゃないのに……。

 柔道場に畳を打つ音が響く。150畳ほどの柔道場では、あちこちで1年生たちが畳に叩きつけられていた。

 入学当初は可愛い新入部員だった1年生も、ひと月経てばただの後輩になり、それ以上になれば貴重な投げられ要員になる。柔道部の1年生の役割など、そんなものだ。

 柔道部の上級生たちは、面倒見がいい。

 新入部員たちがハードな練習についてこられるように、まずは筋トレだ。それから怪我などしないように、しっかりと受け身を教えてやろう。体重も増やさなければならんから、部活終わりにはメシもおごってやろうじゃないか。

 すべては可愛い新入部員のため、もっといえば、すべてはオレたちの投げられ役を育てるためだ。

 バーベルのウェイトをそっと増やしてやったのも、自らすすんで受け身の手本を見せたのも、いつもの店で洗面器と呼ばれるバカみたいに巨大な皿のカレーをおごってやったのも、みんなみんな可愛いおまえたちをぶん投げるため、畳に転がすためだった。ひょろいのを投げたところで、なんの練習にもならないからな。

 そう、そのためだったのに。

 今年の1年生の中にただ一人、乱取りが終わってもずっと立っている新入部員がいた。

 秋山シゲルだった。

 高校で初めて柔道に触れるという初心者は問題外として、中学で多少腕に覚えがあるというくらいでは、高校の柔道部では通用などしない。

 大半の新入部員もそれはわかっていて、先輩たちに素直におごられ、しごかれ、投げられる。多少生意気な新入部員も、乱取り稽古でおもしろいように投げられ、実力の差を思い知らされると、あっという間に従順になる。なにしろ高校3年生といえば学年途中で成人を迎える生徒もいる。1年生とのあいだには文字どおり大人と子供の差があって、敵うはずもないのだ。

 乱取り稽古ともなれば、1年生など人間大の藁人形と変わらない。先輩たちに軽々と投げられるために存在しているのだった。乱取りが終われば、そこら中に呆然と天井を見上げる藁人形が横たわっていて、藁人形と違う点があるとすれば、それぞれが肩で息をしていることと、額に玉の汗を浮かべていることくらいだった。

 それなのに、秋山シゲルだけは違っていた。

 体格に恵まれていることに加えて、秋山は体幹がおそろしくしっかりしている。先輩部員がちょっとやそっと押し引きしたところで、彼の体勢は崩れない。まるで岩か大木を相手にしているかのようだ。

 ならばと上級生ならではの足さばきで懐に潜り込もうとすると、今度は一枚の布のようにするりと逃げて体勢を入れ替えられ、逆にこちらの重心を崩されてしまう。

 その動きには隆々たる筋肉からは想像もつかないほどの繊細さがあって、投げ倒された上級生たちはもう笑うしかなかった。

 この高校の柔道部が、決して弱いというわけではない。ここ最近はパッとしないものの、何年か前には県大会で上位入賞することもあったし、かつては団体戦でインターハイに出たこともある。

 秋山もその強さを見込まれて、スポーツ推薦でこの高校に入学したのだ。

 公立高校の入試にもスポーツ推薦枠がある。「文化・スポーツ等特別推薦」といって、中学校の校長の推薦を受けた生徒が応募でき、選抜にあたっては普通の学力検査ではなく実技試験が行われることは広く知られている。

 一方であまり知られていないのは、秋山が利用した非公式なスポーツ推薦の方だ。

 スポーツで目立った活躍をしている生徒には、「部活見学」という名目で高校からお呼びがかかる。そこで中3生たちは高校生に交じって半日練習をするのだが、その内実は選抜試験だ。

 高校側がこの方法を採るメリットは2つ。

 1つは文化・スポーツ枠で入学させる生徒の数を増やせること。

 公式な「文化・スポーツ等特別推薦」の募集人数は限られている。だから伝統校であろうとも、あの選手もこの選手もとこの枠であまり多くの生徒を合格させることはできない。しかしこの方法を採れば、その生徒はあくまでも一般受験で合格したことになるから、定員までは事実上無制限だ。

 もう1つは、本当の実力を見極めて合否を判定できること。

 中学での大会記録などが判断材料になるのはもちろんだが、実際の力を確かめることが不可欠だ。そのために、高校生の練習に交ぜてその様子を見る。

 子供の数が減少しているいま、高校は生き残りに必死だ。

 少しでも特色を出して受験生たちにアピールし、廃校の憂き目に遭わないように策を練る。いわゆるトップ校ならいざ知らず、中堅以下の高校はそれこそ生徒の奪い合いなのだ。この辺はシェアを奪い合う企業となんら変わるところはない。

 だから校則だって緩めるし、制服だって変える。ある高校ではリボンの可愛い制服に変えたところ、女子のみならず男子の受験生まで大幅に増え、入試倍率はかつてないほどに高くなった。その結果、学校そのものの偏差値まで上がり、いまでは名うての進学校になっている。

 秋山は自分が非公式なスポーツ推薦枠で入学したことを自覚していた。

 昨年11月の「部活見学」にも参加したし、そこではかなりの根性を見せたつもりだ。そのときにはまだいまほど先輩たちとは渡り合えなかったが、それでも何度かいい大外刈りを披露できた。

 結果、いまこうしてこの柔道場に立っている。

 足もとではたったいま投げられたばかりの3年生が、半ば悔しそうな、半ばうれしそうな顔で横たわっていた。

「くっそー、なに食ったらそんなにでかくなんだよ」

 3年生は諦めたように天井を仰いだ。

「おまえ、もともとでかかったけど部活見学のときからまたでかくなったろ」

 そのときはこの先輩もまだ2年生だった。当然伸び盛りなはずだが、秋山はそれを上まわるスピードで背が伸びているのだった。

「もうおまえには飯おごらねえ。これ以上でかくなられたらやってられねえよ」

 言葉とは裏腹に、その顔はうれしそうだった。

 強い後輩が入ってくれば、上級生といえどもレギュラーの座は危うくなる。そう思うところがないではない。

 しかし、自分の部が強くなることを悪く思うこともできないわけで、そうなれば自然と笑顔にもなった。それに、柔道というスポーツの性質上、団体戦に出られなくても個人戦に出ることはできる。個人戦の方は、それこそ個人の力量次第なのだ。

「う、うすっ」

 秋山はなんと答えていいからなくて、曖昧な返事をした。

 ここのところ、自分でも急速に力がついているのがわかる。それは筋力という点でもそうだし、柔道の技術という点についてもそうだった。

 以前には上げられなかったバーベルが上げられるようになったし、しゃがんだ相手を引っぱり上げる「引き出し」もかなりの速さでできるようになった。

「部活見学」のときにはおもしろいように転がされていた先輩の足技もかわせるようになったし、なにより身体を沈めて相手の懐に潜り込むのがうまくなった。

 結果、3年生たちの多くと互角に渡り合えるようになった。部活の中で、注目されているが自分でもわかる。

 だけど、と秋山は思った。必ずしも居心地のいいものじゃない。

 確かに自分が強くなっていくのはうれしい。先生や先輩たちからほめられるのも誇らしい。だけど、そうなれば自然と注目が集まるようになって……。

「お、なんだそれ?」

 もうおごらない、といったその口で、先輩たちは秋山を学校帰りの充電——柔道部員は買い食いのことをそう呼んでいた——に誘い、部員御用達のトンカツ屋で秋山のカバンにつけられたキーホルダーを見つけた。

 しまった。サイドポケットの中におさめていたはずの小さなウサギのキャラクターが、いつの間にか半分ほど顔をのぞかせていた。

「あ、いや……」とカバンを身体の後ろに隠そうとしたときにはもう遅かった。別の先輩が、秋山のカバンを取り上げ、真っ白なウサギが全身を露わにしていた。

「なんだこれ?ウサギ?」

 それは大きなニンジンを両手で抱えた真っ白いウサギの人形で、男子高校生が、ましてや柔道部員が持つにはあまりも可愛すぎるものだった。

「え?なにこれ?どうしたの?」

「いや、もらったっていうか……」

 秋山がいい終わらないうちに、カウンターに座る数名の柔道部員から悲鳴ともつかない声が上がった。

「ああー、秋山。これはない。これはないわ」

「反則だな。河津掛だ」

「いや、むしろ山嵐級の反則だ」

「どっちにしても一発アウトだぞ」

 河津掛も山嵐も、現代柔道では反則技だ。河津掛の方は、大外刈りや大内刈りといった技の形になっていれば反則にはならないから、その点では反則の程度が軽いといえるが、どちらにしても反則には違いなかった。

「秋山、おまえな」と肩に手をまわしながら声をかけたのは部長だった。「1年生でそんなにでかくて強くて彼女持ちっていうのは、見過ごせない反則だぞ。指導対象だ」

 部長の顔は、「おまえには失望した」といわんばかりの表情だった。

「いや、そういうわけじゃ……」

「そういうわけじゃもこういうわけじゃもないんだよ、秋山。柔道部員はモテてはならないっていう全国ルールがあるんだぞ」

 もちろんそんなルールがあるわけもなかったが、現にモテない柔道部員としてはそうとでも思わなければやっていられなかった。

 探せば、モテる柔道部員もいるだろう。しかし、我々はモテないのだ。

 サッカー、バスケ、野球にテニス。同じスポーツなのになぜあいつらばかりがもてはやされる?ちやほやされたいとはいわないが、せめて同じくらい、いやその半分くらいならモテてもいいじゃないか?

 そんな鬱積が、秋山に向けられていた。もちろん、目の前のトンカツの衣と同じくらい薄い鬱憤だったが。

 秋山にしてみれば、そんなふうに見られるのは迷惑この上なかったが、なにをいっても無駄なのはわかっていた。

 本当に、そんなんじゃないのに……。

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