第3話 アタシがアタシだからダメっていってるの
「じゃあ、うちのクラスが投票する曲は、『空を駈ける夢』ということになりました」
御木元の宣言に、教室からパラパラと拍手が起こる。その大半は女子からのものだったが、男子の中にも拍手をしている者はいた。
一際響く拍手を送っているのは、柔道部の秋山シゲルだ。背ばかりでなく、手まで人より大きいのだろう。
——おまえ、柔道部のくせに合唱したいのかよ。
ハルユキは思った。
それが偏見であることは、ハルユキ自身わかってはいた。わかってはいたが、クラスで合唱をするという信じがたい事実への憤懣をどこかに向けずにはいられなかった。
おそらく数回はあったのだろう曲決めの話し合いを聴いていなかったのは自分が悪い。だけど、なんで体育祭で歌を歌わなくちゃならないんだよ。
拾い聞きしたクラスメートたちの会話から察すると、体育祭のプログラムのひとつに応援歌斉唱があり、赤、青、白、緑の各組がそれぞれの曲を歌うらしい。その曲はいくつかの候補曲から選ばれ、色分けされた各クラスが1票ずつを投じて決められる。ハルユキたちのクラスは白組だ。
クラス委員の御木元がリストに丸をつけて提出するように求めていたのは、クラスとしてどの曲に投票するかを決めるためだった。
ハルユキは受験のときにそれを調べておかなかった自分を呪った。
いつでもどこでもネットにつながるこの時代、わからないことはスマホで検索すればいい。答えはネットのどこかに転がっているはずだ。
しかしその答えにたどり着くには、調べるべきことを認識していることが必要だ。
高校では、全校あげての合唱祭をやるところなどほとんどないことは知っていた。しかし、まさか体育祭で歌を歌う高校があることなど、思いもよらなかった。
最初から調べる必要なしと思い込んでいる情報には、行きあたるはずもないのだった。
それにしたって、ないだろ、あり得ないだろ、あっちゃダメだろ!なにみんなして了承してんだよ。オレたち高校生だぞ。なんだって好きこのんで合唱なんてやらなくちゃいけないんだよ。学校あげての反対運動が起こってもおかしくないだろ。みんな抗議しないのかよ。
自分もその抗議しないみんなのうちの一人であることを棚に上げて、ハルユキは周囲の生徒を見渡した。
すでに拍手は収まっていたが、「わたし歌下手だからなあ」とか「カラオケ行って練習する?」などという、楽しそうな声がそこここで湧き起こっていた。しかし、そういう会話ができるのも友だちと呼べる存在がいればこそで、ハルユキにはそれすら許されなかった。
会話は次第にほどけていき、担任の「じゃあ、みんながんばろう」という声とともにLHRは終わった。いつもなら真っ先に教室をあとにするハルユキだったが、このときばかりは呆然と席に座ったまま、誰もいなくなった教室で黒板に残る『空を駈ける夢』という文字を見つめていた。
——駈けねえよ、そんな夢は!
音楽が嫌いなわけじゃない。歌が嫌いなわけじゃない。合唱だって、やりたいと思う奴がやるぶんには結構だ。
スポーツの団体競技と同じで、ハルユキも大勢の人が懸命に歌う姿には心を打たれないではない。毎年年末に歌われる『第九」の合唱には、感動を覚えることもしばしばだ。しみったれた鐘の音なんかよりずっといい。
だけど、自分がやるとなると話が違う。
誰かが歌っているのを見ているだけなら、心を揺さぶられもする。しかし自分が歌うとなった途端、夢や希望に満ちたその曲は、悪夢と絶望にあふれる汚穢となる。
——こんな声で、なにを、どこを、歌えっていうんだ。
歌っている自分を嘲笑うクラスメートの姿が目に浮かぶ。クスクスと、わざわざ聞こえるように嗤う声が聞こえる。もっと悪いのは、自分はなにも気にしていませんよという顔で、押しつけがましい道徳心を振りかざしてくる奴らだ。
——おまえらが振りかざす道徳心やわざとらしい優しさで、こっちは滅多打ちにされるんだよ。
中学生のときはまだ、とハルユキは思った。いや、中学生のときだって、そんなことはあったんだ。
「瀬下くんって、声高いよね」
中学3年生のクラスで、何気なくいわれたことがある。そのひと言は、まだいい。ぜんぜんいい。問題はそれに対して、「別にいいじゃん、声が高くたって」と、まるでかばうように割って入った女子の声だ。
こっちはそんなこと気にもしていなかったんだよ。おまえが自己満足のポリコレ棒を振りまわすまでは。おまえが振りまわしたポリコレ棒は相手より先にオレをぶちのめして、わざわざ「コイツの声は変わってる」って知らしめてしまったんだ。みんなにも、自分にも。
ハルユキはおもむろに立ち上がると教壇まで歩いていき、黒板消しを握ると荒々しく『空を駈ける夢』という文字をこすった。
そのとき、廊下から誰かの足音が近づいてくるのが聞こえた。開け放ったドアからは、話す声も少しずつ入ってくる。それは、男女の声のようだった。
どうせ、決まったばかりの合唱曲についてワイワイやり合っているんだろう。なんなら、一緒に練習しようとか、早くもそんなふうに盛り上がっていたりして。いや、いくらなんでもそれは展開が早すぎるか……。
声が近づいてくるにつれ、まるでカメラのピントが合うように、次第に話す内容がはっきりとしてきた。
「いいじゃんか、別に」
「ダメよ、絶対!」
展開が早すぎる、と思っているのはハルユキだけのようだった。
高校生にもなって合唱なんて頭お花畑かよと思ったけれど、お花畑なのは心の方も同じのようだ。
どいつもこいつも、高校生になった途端に色気づきやがって。
そうは思ったものの、ハルユキはそんなことをいえるほど、どいつのこともこいつのことも知ってはいなかった。
「だって別に知られたからってどうってことない……」
「どうってことあるのよ。絶対いったらダメだからね!」
誰もいないはずの教室に戻って来たのは、クラス委員の御木元と柔道部の秋山だった。御木元はドアを開けるなり、ハルユキの姿を認めて絶句した。
彼女の見開かれた目は、見事に「なんで人がいるのよ」と「いまの話、聞かれた?」の両方を同時に表していた。
秋山の方は先ほどの会話同様、「別にどうってことない」という顔をしていた。
「あ、ええと、瀬下くん……だよね?」
2つの感情を同時に表した器用な顔のまま、御木元がいった。
自分の名前が曖昧にしか覚えられていないことには、ハルユキはショックを受けなかった。自分だって、印象深かった御木元の名前こそ覚えてはいるが、他の生徒の名前はたいして覚えていないのだから。それなのに「どうしてオレの名前を覚えていないんだ」というのは、あまりにもアンフェアというものだった。
「うん」
「黒板、消してくれたんだ。ありがとう」
明らかに話をそらしたくていっているのがわかる、空虚な「ありがとう」だった。
「いや、別に」
目も合わせず、ハルユキはいった。
いやだな、こういうのに巻き込まれるのは。どうせオレがいなくなったら、「いまの聞かれちゃったかな?」「いいじゃんか、別に」なんて二人で盛り上がるんだろ?
どうやら二人は中学のときからの知り合いのようだし、そういうことがあっても不思議はない。特に、いまのように新しい環境に放り込まれたときには、自分が少しでも知っている世界が寄る辺となる。
だから中学時代から知っている相手との距離が縮まり、それが勢いあまって恋愛関係に発展するのも無理からぬことだった。
それならそれで、とハルユキは思った。
——オレのいないところでやってくれ。
ハルユキは自分のカバンをひっつかむと足早に教室を出て行った。
そのあまりの勢いに、残された二人は呆然として互いの顔を見つめ合った。
「いまの、聞かれてたかな?」
「別に聞かれてたっていいだろ?」
ハルユキが聞いていたら、「ほら、やっぱり」といわんばかりの会話だった。そうやってオレをダシに、二人で盛り上がるんだろ?
しかしそのあとの二人の会話は、ハルユキには想像もつかないものだった。
「よくないわよ!誰かにアタシの中学時代の話したら絶対許さないからね」
「そんな大ごとじゃないだろ。御木元は御木元なんだし」
「アタシがアタシだからダメっていってるの!」
はたから聞けばおそらく痴話げんかと解されるだろうその会話は、しかし、御木元の切羽詰まった調子だけが異彩を放っていた。
「とにかくダメ、絶対にダメ、あり得ないくらいダメ!」
いうことを聞かなければあんたを殺してアタシも死ぬ、とでもいわんばかりの勢いに気圧されて、秋山は後ずさりし、黒板に背をつけた。これが柔道の試合なら、きれいな一本負けだ。
秋山の背中の下では、ハルユキによって消されかけた『空を駈ける夢』という文字が残像のように黒板にしがみついていた。
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