第2話 どれがいちばんいいかを選ぶやつで

 そうやって始まってしまった高校生活は、ハルユキにとっては苦痛そのものだった。

 勉強の方は、そうでもなかった。もともとなんのためという目的もなく、「みんなが行くから行く」くらいの感覚で決めた進学だった。いや、多くの中学生と同様、決めたという感覚すらない。

「進路指導」とは名ばかりで、実際に中学で行われていたのは「どこの高校を受けるか調査」に過ぎない。ハルユキもそれがおかしいとか、学校はもっと多彩な選択肢を示すべきだなどとは思わなかった。

 なにしろ全国の高校進学率は96パーセントを超えているのだ。学校内で高校に進学しないという生徒にはお目にかかったこともない。

 だから特になにも考えず、流されるままに高校に進んだ。そのときに考えたのは、あまりレベルの高い高校はやめておこう、ということくらいだった。

 中学の勉強がさっぱりわからないというほどではないにせよ、ハルユキは勉強が得意とはいえなかった。だからそこそこのレベル、高望みしなければ大学に行けなくはないくらいの高校を選んだ。

 おかげで授業についていくだけなら、さほどの苦労はいらなかった。

 苦労がいるのは、勉強以外の学校生活の方だった。

 この声を、このおかしな声を、中学ではなんとも思わなかったこの奇妙な声を、誰にも聞かれたくなかった。聞かれたくなければ、黙っているしかない。黙っていれば、コミュニケートできない。コミュニケートできなければ、クラスメートたちの輪には入れない。

 そんなわけで、5月に入ってもハルユキにとってクラスメートはいまだにただのクラスメート、せいぜい顔見知りという程度で、友だちと呼べるような存在は一人もできていなかった。

 だから授業の合間の時間も、昼休みも、教室でただぼうっと座っているか、さもなければ教室を抜け出して人目につかない場所で時間が過ぎるのを待つばかりだった。

 4月中はまだ、黙って席に座っているハルユキに声をかけてくれる生徒もいた。しかし、その数は次第に少なくなっていき、気づけば必要最低限の連絡事項以外でハルユキに話しかける生徒はいなくなっていた。

 まあ、それもいいさ。中学時代だって、クラスの中心人物だったってわけじゃない。みんなといれば、そこそこ話したし、そこそこ騒いでいたというだけだ。こうやって静かに過ごして、目立たないままいるのも悪くない。むしろ面倒くさい人間関係に煩わされずにすんで、助かる面の方が大きいかも知れない。

 いずれ声が低くなったら、などという期待は、とうの昔に捨てていた。声変わりらしきものがあってから、もう一年以上が経過しているのだ。いまさら声が低くなるなんてことは考えられなかった。

 たぶんオレの喉は、声変わりに失敗したんだ。

 声変わりに勝ちも負けもなかったけれど、それでもハルユキにしてみればこの失敗は負けといえた。しかも完敗、完封負けといえそうだった。

 声変わりに成功しまくってダースベイダーみたいな声になるのもどうかとは思ったが、失敗よりはましなはずだ。

 その点でいえば、前の席に座る女子は身長という点で大勝利を収めていた。

 でけえ、というのが入学当初にハルユキが抱いた印象だった。180センチ近い身長は女子の中では学年一の高さで、柔道部の秋山と並んでも見劣りしない。たまたま二人が近くに立っていたとき、二人の苗字から誰かがその様子を「|秋城《》あきしろ連山」と呼んでいた。

 目の前でハルユキの視界をさえぎる彼女の名前は、城ヶ崎アユミといった。

 その城ヶ崎の身長のおかげで、ハルユキは黒板を見るためにたびたび頭を左右に振らなくてはならないのだが、城ヶ崎の方でもそれはわかっているようで、席に座っている彼女はいつも申しなさそうに背を丸めて肩をすぼめていた。

 そこまで縮こまらなくてもいいのに、とハルユキは思った。席なんてくじ引きで決めたんだから、オレの前に座ってるのはこいつのせいじゃないのに。

 ましてや担任の教師からは、「お互いによければ席を交換していい」といわれてもいた。学年最初の席決めでそんなことを言い出せる生徒がいるわけもなかったとはいえ、みんなそれを承知で席に着いたのだから、誰にも文句をいう権利はないはずだった。

 その「でけえ」女子が突然こちらを振り向いたので、ハルユキは思わず声を上げそうになった。まるで見透かされたかのようなタイミングだった。

 しかしもちろん、話したこともない相手と以心伝心などということがあるわけもなく、彼女はただ前から送られてきたプリントをまわしてよこしただけだった。

「あの、これ……」

 虚を衝かれて動けなかったハルユキにかけた城ヶ崎の声は、その身長からは想像できないくらいに可愛らしいものだった。

「あ、ああ……」

 地声の可愛らしさだけならハルユキも負けてはいなかったが、そんなものが決して比較されたりしないように、ハルユキは相変わらず押し潰した声でプリントを受け取り、一枚取って後ろにまわした。

「後ろまでいった?じゃあ、曲かけるからね」

 目を上げると、教壇の真ん中にクラス委員が立っていた。

 ああ、そうかLHRロングホームルーム)の途中だったっけ。で、クラスメートのみなさんはなんの話をしてるんだ?曲?曲ってなんだ?

 そう思った途端、教室の前の方からピアノの音色が聞こえてきた。ハルユキが音のする方に目をやると、教卓の上に置かれたスピーカーから曲が流れ出していた。そのスピーカーは、どうやらクラス委員のスマホと接続されているらしい。

 あのクラス委員、御木元っていったっけ?確か初日に秋山と話してた奴だよな。そういえばアイツ、その翌週の役員選出でクラス委員になっていたんだっけ。ハルユキは自分のクラスに関するわずかばかりの記憶の糸をたぐり寄せた。

 クラス委員に推薦されたとき、アイツは「ええー、無理だよー」なんていいながら、まんざらでもなさそうだった。きっとそういうのに選ばれるのは、もともとそういう奴なんだろう。

 誰とでもうまくやれて、誰とでも仲良くできる。そしてみんなから、「御木元さんがいいと思いまーす」と推薦されて、その期待に軽やかに応えてみせるんだろう。

 ハルユキのそんな思いを裏打ちするように、教壇に立つ御木元は胸を張り、堂々として見えた。

 スピーカーからのピアノの音色にはいつしか人の声が乗り、どうやらそれは混声合唱曲のようだった。

 合唱……。

 ハルユキの胸に、苦い思いがよぎった。

 歌うこと自体は、嫌いではなかった。いや、むしろ好きだといっていい。いまだってシャワーを浴びながら流行りの歌を口ずさむことはよくある。

 しかし、合唱は別だ。

 多くの中学校と同じく、ハルユキのいた中学校でも毎年文化祭という名目でクラス合唱大会が行われていた。

 中学生らしい素直さで、生徒たちはそれなりに一所懸命練習し、ステージ上では精一杯の声で歌っていた。

 しかし、ハルユキが3年生のとき。

「ハルユキの声ってさ、おかしいよね」

 誰かがいったそのひと言で、すべてが変わってしまった。

 それまで誰も気にしてすらいなかった「違い」が、まるでサーチライトを浴びたように浮かび上がってしまい、強烈なコントラストを際立たせた。

 サーチライトの光は軽い笑い声だけを残してするすると移動していき、やがて教室はいつもと変わらぬ喧騒に包まれた。

 しかしハルユキの心だけは、いつまでもそこに残り続けた。

——オレの声、変なんだ……。

 それ以来、ハルユキは人前で歌わなくなった。それどころか、声を発することを厭うようになった。

 だから中学3年生のときの合唱大会では、練習も本番も口パクを貫いたし、教室でもあまりしゃべらなくなった。

 そこへ持ってきて、青天の霹靂のごとくまた「合唱」の二文字が現れたのだ。

——ま、オレには関係ないけどな。

 ハルユキの高校では芸術科目は選択制で、音楽、美術、書道、工芸、どの科目でも自由に選択することができた。あまりにも偏りが出てしまった場合には抽選になるものの、今年はまんべんなく申し込みが散っていて、誰もが希望どおりの科目を受講できていた。つまりどのクラスも生徒のおよそ4分の1ずつがそれぞれの芸術科目を選択しており、その時間になるとそれぞれの科目専用教室に散っていく。音楽選択なら音楽室に、美術選択なら美術室にといった具合だ。

 芸術科目の時間には複数のクラスからその科目を選んだ生徒が専用教室に来るから、専用教室が閑散とするということはない。他のクラスの生徒と同じ授業を受けることになれば、クラスをまたいでの交流を深められるだろうというのが、高校側の目算だった。

 この時代、コミュ力は生きていく上で必須だ。高校としてもその配慮をしてのことだろう。

 ハルユキはもちろん音楽を選択するなどという愚を犯すはずはなく、いちばん声を出す機会が少なそうな工芸を希望し、その通りになっていた。

 だから、こうして教室に合唱曲が鳴り響いているあいだも平然としていられた。御木元の話など聞いてはいなかったが、どうせ「音楽選択はいまこの曲を練習しているので、みなさん聴きに来てください」などという話をしていたのだろう。

 まあ、夢や希望に満ちた高校生らしい素晴らしく薄っぺらい曲じゃないか。どうしてこう、大人が中高生に歌わせたがる曲っていうのはうさんくさいものばかりなんだ。

 ハルユキが音楽を選択しなかったのは声のせいばかりではなかった。

 音楽を選択すれば、必ず歌がつきまとう。そしてその歌は、大人が描く「若者はかくあるべし」というものばかりで、胸いっぱいの夢や光り輝く未来に満ちあふれていて、白々しいことこの上なかった。

 そんな歌を力いっぱい歌える奴の気が知れない、そんなふうに思っていた。

 だから、3曲を聴くともなしに聴き終わって、「じゃあ、これがいいと思った曲に丸をつけてください」という御木元の声を耳にしたときには、彼女がなにをいっているのかわからなかった。

——これがいい?いいってなんだ?なにがいいんだ?

 さっきまわされてきたプリントに目を落とすと、そこには曲目とその横に丸をつけるための欄が並んでいた。そしてその上には、【体育祭応援歌候補曲】という文字が。

——嘘だろ?なんだその応援歌ってのは?

 自分で思っていた以上に、ハルユキはLHRの内容をなにひとつ聞いていなかった。どうせ自分には関係ない話をしてるに決まってる、そう思って耳を閉ざしてしまっていた。

 まさか今日一回のLHRで曲目の選定まで進んだわけではないだろうから、これまでにも話し合いがあったのだろう。

——ぜんぜん、聞いてなかった……。

 ハルユキはいつの間にかLHRで話が進んでいたことにも、自分が興味のないことをいかにシャットアウトできるかにも驚いていた。後者については、我が事ながら多少呆れててもいたが。

 あらためて考えると、この教室には興味のないことが多過ぎた。だからいまだに、大半のクラスメートの名前も覚えていない。御木元や秋山の名前を覚えているのは、入学初日に最初に名前を聞いたからに過ぎなかったし、城ヶ崎の名前を覚えているのは彼女の背がずば抜けて高く、印象に残っているからだった。

 逆に話したこともなく、ましてやこれといって特徴があるわけでもない、いま後ろからプリントを送ってきた生徒の名前など、覚えているはずもない。

 受け取ったプリントを見つめたまま、ハルユキは呆然とした。

——なんなんだ、これは?

 そんなハルユキを、前の席の城ヶ崎が振り返って見ていた。

 どうしたの?と問いたげな桜色の唇は、それでも話したことのないハルユキを急かすことはせず、「あの……」と小さな声を発しただけだった。

 彼女は背を丸めたまま振り向いているので、小首をかしげたようになっている。頭の横から、軽くウェーブのかかった髪が長く垂れていた。

「これ、なに?」

 少し茶色がかった瞳にほだされるようにして、ハルユキはつい言葉を発してしまった。それでも、声をできる限り低く、潰しておくことは忘れなかった。

「これは、えっと……」

 あまりの唐突な問いに、城ヶ崎は言葉に詰まった。

 しかしその顔は、ハルユキを責めるというよりも本当に「どうしてわからないの?」という様子だった。

「これは、その、体育祭のときに歌う曲を、どれがいいか選ぶやつで……」

 まるでハルユキが事情を飲み込めていないのは自分のせいででもあるかのように、彼女は申しわけなさそうに説明した。

 それはプリントのタイトルからして明らかなことだったが、これまでの話をまったく聞いていなかったハルユキには藪から棒もいいところだった。

「歌う……?」

 歌う曲!?と叫びそうになったのを必死に抑え込んだが、それでも少しだけ地声が漏れた。その声を聞いた城ヶ崎の眉がピクンと跳ねた気がした。

 しかしいまは、それを気にしている場合ではなかった。

 歌うのか?いま聴いた曲を、クラスで?

 冗談じゃないぞ。音楽選択でもないのに、なんだってそんなことしなくちゃならないんだ。

 動揺するハルユキに、城ヶ崎がいった。

「それ、いい?」

 ハルユキは手にしたプリントに目を落とした。幸い、プリントは無記名投票の形式を取っている。つまり、どの曲にも丸をつけずに提出してもバレやしないということだ。

 もちろん、問題の本質はそこではない。ただそれでも、いまこの場をやり過ごすにはなんでもない顔をして白紙のプリントを出す他なかった。

「ああ、うん」

 精一杯さりげないふりで、ハルユキは城ヶ崎にプリントを渡した。

 冗談じゃないぞ。なんだって体育祭で歌なんて歌わなくちゃならないんだ?

 この高校、頭おかしいんじゃないのか?

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