ボーイソプラノ

@wadadawa

第1話 十国峠から見た富士だけは

「じゃあ次、瀬下」

 別に誰でもいいような調子で、国語の老教師が指名した。その証拠に、教師の目は生徒の方など見ていない。彼の目がなぞっているのは教卓の上に置かれた出席簿だけだ。

 高校の教師を何十年も続けていればそうなるのかも知れない。よほど荒れた学校にでも赴任しない限り、教師の目から見れば近頃はどの生徒もおとなしく、厄介ごとを嫌い、みんな等しく同じに見える。だからよほど偏らない限り、どの生徒にあてようとたいした違いはないはずだった。

——だったら、他の奴にあてればいいのに……。

 教室の真ん中あたり、いちばん目立ちにくいわりにはいちばん教師の目がいきやすい席に座る瀬下ハルユキは、渋々立ち上がりながら思った。

 隣の生徒はさっきから机の下でスマホをいじっているし、斜め前の女子なんて教科書に隠れて化粧を直している。

——こいつらにあてればいいじゃないか。

 それでも、そんなことは教師からすればおかまいなしだった。なにしろ彼が向き合っているのは教室にいる生徒ではなく、出席簿に印刷された名前のリストの方なのだ。

「十国峠から見た富士だけは、高かった。あれは、よかった。はじめ、雲のために、頂が見えず……」

 ハルユキは前の生徒のあとを継いで、『富岳百景』の続きを読んだ。不自然に押し潰したような声で。

 その声には、さすがの教師も反応した。彼は老眼鏡の上からのぞき込むようにしてハルユキの方に視線を向けた。

「どうした?風邪でも引いたか?」

 このクラスの担任でもある老教師の言葉には、それでも本物の心配が含まれていた。30年も前なら、教師をからかうためにおかしな声で朗読する生徒もいただろうが、いまではそんな生徒はとんと見かけない。

 生徒が苦しげな声を出しているのなら、それは本当に苦しいのだろう。ただハルユキが苦しげな声で教科書を朗読するのは、今回が初めてではなかった。それどころか、あてられるたびにこうして潰れた声を出していた。

 しかし、出席簿を相手に授業をしている教師には、そんなことは記憶の外にあった。

「はい、ちょっと」

 そう答える声にも、苦しげな響きがあった。

「そうか、じゃあそこまで。それじゃあ次、太田」

 次に指された生徒は、あからさまに「なんだよ、もうちょっと読めよ」という顔で立ち上がったが、よく考えれば自分が読むのは段落の途中からということになる。

 一段落ごと順番に読んでいくという暗黙のルールからして、ハルユキが読むはずだった段落の途中から読むことになったということは、それだけ分量が少なくなっているということだ。それはちょっぴりラッキーといえて、すぐに彼は機嫌を直して読み始めた。

 その声の向こうで、クスクスと笑う声が聞こえた。

「アイツの声、おかしくね?」

「わたしアイツがまともにしゃべってるの聞いたことない」

 明確に聞こえたわけではない。

 それどころか、本当に誰かがしゃべっていたのかも定かではない。

 それでも誰かが自分の声をそんなふうに嗤っていたように、ハルユキには感じられた。

 その声が、ハルユキには不快だった。

 そして、自分の声も。

 中学生の頃は、まだよかった。いや、中学2年生の頃までかな。まわりにもまだ声変わりしていない奴がいたし、ほとんどの生徒が小学校時代からの顔見知りだから、昔からの声を知っていた。だから自分の声が高いことを気にかける奴はいなかった。

 だけどだんだんと男子は声変わりを経験していき、いつまでも女の子みたいな声をしている男はいなくなってしまった。

——いや、オレだって声変わりはしたはずなんだ。

 しばらくのあいだ、声がかすれていた時期があった。いまでは立派な喉仏だってある。にもかかわらず、その声枯れが治ったときには元通りの女子みたいな声に戻っていた。

 初めはなにも気にならなかった。それどころか、声の出づらかった時期が終わって、すっきりしていたくらいだ。

 ところが、あるとき気がついてみれば、いつまでも女の子みたいな声をしているのは自分一人だけだった。

 確かに、体格的にもがっしりしているとは言い難い。背だって、それほど高くない。自分より背が高い女子もざらにいる。

 だけど、それにしたって。と、ハルユキは思った。ここまで声が高くなくてもいいじゃないか。

 自分より声の低い女子だってめずらしくない。もちろん向こうは気づいていないが、話す声を聞いていれば明らかにわかる。

 異常という気もないし、おかしいと思うつもりもなかった。だけどめずらしいと認めるくらいにはハルユキは正直だったし、それが周囲からどう見られるかもわかっているつもりだった。

 だから周囲のヒソヒソ話す声や小さく笑う声が、距離を超えて突き刺さる。ああ、そうだよ。高1にもなってこんな女の子みたいな声してるのは、オレだけだよ。

 小学校から中学校に上がるのと違って、高校での新生活では知らない人間の方がまわりに多い。同じ中学出身同士でかたまろうにも、そんなのはクラスに一人か二人、ポツリポツリといるかいないかだ。そうなると強制的に見ず知らずの人間と関係を作らざるを得ないことになり、そのためにはまわりにいるのがどんな人間なのか知ろうとせざるを得ない。

 自分と気が合うのか、おもしろい奴か、いやな奴じゃないか、付き合っていけそうな奴か。

 新しい教科書の表紙がどうだとか、受験のときはどうだったとか、中学のとき部活はなにをやっていたとか、そんな当たり障りのない話から、少しずつお互いのことを知っていく。

 かっこいいとか可愛いとか、あの子は恋愛対象としてどうかとか、気の早い生徒はひとつの教室に入れられた瞬間からそんな値踏みを始めていた。

 そのときに頼りにするのは、もちろん声だ。

 LINEやインスタでのメッセージ交換はもちろんだ。しかしそれだって、友だち登録するのも相互フォローするのも、まずはクラスで会話をしてからだ。

 その会話が、ハルユキにはなによりのハードルだった。中学校ではなんの気なしにできていた会話が、高校に入って突然できなくなった。

 高校生活初日、入学式が終わって生徒たちが入った教室は、奇妙な静けさに包まれていた。誰もが平静を装いながら、それでいてソワソワと落ち着かない様子でまわりの様子をうかがっている。

 まるでみんなで見えないジェンガをやっているみたいだった。

 お互い、素知らぬ顔をしてそっとブロックを抜き取る。だけど心の中では、誰かがタワーをバラバラにしてくれることを願っている。バラバラにして、グチャグチャにして、どこになにがあっても、どれとどれが重なり合っていても気にならないようにしてほしい。

 きっと、いや間違いなく、この教室もそんなふうになる。ただそれが、数分後なのか、数時間後なのか、それとも何日も先なのかがわからなくて、誰も最初の一手を繰り出せないでいるのだった。

 誰か、早く口火を切ってくれないかな。そうすれば、あっという間にこの緊張感は崩壊して、おなじみの心地いいざわめきにひたることができるのに。誰か、できれば自分以外の誰かが……。

 誰もが同じ思いをしていることを、誰もがわかっていた。

 わかっていて、わからないふりをしていた。だからわからないふりのまま、横目で、視野の隅で、スマホの画面を見ているふりで、お互いのことをひそかに観察していた。

 アイツ、話しやすそうだな。

 あの子、ちょっとお洒落かも。

 あそこの奴、真面目そうだな……。

「あれ?御木元みきもと?」

 教室中で、誰もが心の中で印象と直感だけのクラスメート・リストを作っているさなか、太い声が沈黙を破った。

 教室の前の方から聞こえたその声に、新入生たちの目が一斉に集まった。

 後方に座るハルユキからは声の主の顔は見えなかったが、それでも体格のいい、がっしりとした男子生徒が斜め前の女子生徒に話しかけているのがわかった。

 呼びかけられた生徒が半身になって振り向くと、その表情にはおどろきの色が浮かんでいた。

「あ、秋山……、くん?」

 長い睫毛に整えられた眉。短めにもかかわらず先端だけ軽くカールした髪は全体的に少し明るい色で、目立たないようにインナーカラーも入れられていた。

——すごいな、高校……。あれでセーフなのかよ。しかも初日から。

 そうは思ったが、ハルユキ自身がこの高校を選んだ理由のひとつも、校則が緩いという評判にあった。

 学校見学や、ときおり見かけた登下校時の生徒の様子も、きっちりと制服を着ているという生徒はまれで、ほとんどみんななにかしらの形で着崩しているようだった。そのくせ素行不良や近隣に迷惑をかけているという話は聞いたことがなく、学校説明会で聞いた「生徒の自主性を重んじています」という言葉は、看板に偽りなしといったところだった。

 だからきっと、公立高校とはいえあれくらいなら許容範囲内ということなのだろう、とハルユキは思った。

「やっぱり御木元か。おまえ、この高校受けてたの?なんで?」

「秋山くんこそ、どうしてここに?」

 御木元と呼ばれた生徒にとっては、その男子生徒の存在は想定外のようだった。

「え?だってここ柔道強いじゃん。オレ、高校でも柔道やるならここって決めてたんだよ。ていうか、柔道推薦で取ってくれたようなもんだし」

 アイツのガタイがいいのは柔道やってるからか。いや、ガタイがいいから柔道やってるのか。ハルユキは自分の身体をかえりみた。

 決して痩せ細っているわけではないが、それにしてもあの生徒と比べると体躯の差は歴然だった。身長にいたっては、あちらは優に180センチを超えているだろう。

「あ、ああ、そうなんだ……」

「だけどさあ、ぜんぜん御木元ってわかんなかったよ。だって……」

 そういいかけた秋山に、近くにいた別の男子生徒が控えめに声をかけた。

「柔道やってるの?それでそんなにマッチョなんだ」

 それがきっかけだった。

 生徒たちの緊張で保たれていたジェンガは崩れ去り、我先にその残骸を踏み越えようとしていた。実際に立ち上がる者、離れた席から声をかける者、誰もが最初にでき始めた輪に加わろうと動き出していた。

「いつからやってるの?」

「どれくらい強いの?」

「黒帯?何段?」

「あの選手知ってる?」

 ハルユキもその輪に加わろうと、腰を浮かしかけた。

 こういうとき、最初の輪に参加できないとあとが面倒だ。ほんの少しの勇気がなかったばっかりに、あるいはちょっぴり格好をつけてしまったばっかりに、クラスの輪に溶け込むことがむずかしくなるのはよくあることだ。それを逃すと、次の機会を待つことになる。

 友だち作りの最初の電車が行ってしまったら、次の電車を待たなければならない。線路の上を走って、去ってしまった電車を追いかけるわけにはいかないのだ。学年の最初のうちは、電車は次々やって来てくれるからまだいい。しかし時間とともに発車間隔は開いていき、朝の山手線のようだった時刻表は、いずれ田舎の単線鉄道並みになってしまう。

 ハルユキは、浮かした腰をふたたび席に戻した。最初に動いてしまった方が楽だという計算くらい働いていたにもかかわらず。

 その輪から漏れ聞こえる声に、これまでにない違和感を覚えたからだ。

 こいつらみんな、やけに声が低いじゃないか……。

 目の前の集団から聞こえてくる男子の声は、どれもこれも間違いなく「男」の声だった。自分に近い周波数の声はどれも女子ばかりで、どこにも自分と同じような声の男がいない。

 もちろん中学のときだって、男子集団まるごと声が低いなどということはよくあった。その中に自分一人、甲高い声の男が混じっているということも。

 しかしそれはよく見知った生徒同士での話だ。中には小学校どころか、幼稚園からの幼なじみだっていた。だからもともとの声を知っていて、それが混じっていてもなんとも思いはしなかった。

 だけど、いまはどうだ?声が低いのが男の普通で、その中にこんな声で入っていったら変な顔されるんじゃないのか?上映中の映画館に、煌々と懐中電灯をつけて入っていくようなものじゃないのか?

 個性個性といいながら、実はみんなと同じであることに安心するのはハルユキ自身にも思いあたる節があった。個性的な服を求めてみんなと同じ服屋に行くし、個性的なスニーカーを求めてみんなと同じブランドを選ぶ。個性的だからといって、和服や下駄で過ごす高校生なんて、いやしないのだ。

 だから自分のこの声を、個性だと認めてもらえるとは思えなかった。

 そうして逡巡しているあいだに担任の教師が来て、いつの間にかボソボソとした自己紹介が終わってしまった。自己紹介のあいだ中、必死になって、なんとか声を低くしてやり過ごすことだけを考えていたハルユキは、他の生徒のことなどほとんど目に入らなかった。

 おかげで、誰が誰だかわからないまま高校生活は始まってしまい、呼び戻す手段もないまま電車は走り始めてしまっていた。

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