番外編1 ランチボックス➁

「それで、なんで私たちが呼ばれたんだ?」


 まひるが露骨に迷惑そうな顔で言った。あの高橋ですら、げんなりとした顔をしている。


「そんなこと言わないでよ、久保さん。つばめの弁友でしょう?」

「だからといって、恋人が過ごす一時を邪魔するほど野暮なつもりはないんだがね」

 俺の言葉に、まひるは首を左右に振った。まるで口では俺たちに気を遣ってとでも言いたげだったが、その顔には「痴話げんかに巻き込まないでくれ」と、はっきり書いてあった。


「久保さんはともかく、俺はなんでだよ」


 高橋が不満そうに唇を尖らせた。


「ナオとは、たまに一緒に食べる程度の弁フレなんだからさ。永嶺さんたちと食べるなら、俺はいらないでしょ」


 俺は場を和ませるために、カラカラと笑った。

「弁フレってなんだよ――?」

「それなら、まずは弁友の説明を求めたい!」

 間髪入れず高橋のツッコミが飛んだが、いつもより、どこか刺々しく感じたのは、俺の気のせいだろうか。


「悪い、悪い。でも俺たちだけで判断すると、どうしても正確な審査って難しいだろう。できれば、公平な立会人にいて欲しかったんだ。それも俺陣営と、つばめ陣営でそれぞれ一人ずつ」

「俺は別にナオに肩入れする気はないぞ」

「公平であってくれればそれでいいんだ。そういう意味では、高橋と久保さんはベストな選択だよ」


「そんなことで頼られてもなぁ……」

 久保さんが、遠い目をする。


「まあ、俺は永嶺さんの手料理が食べられるっていうなら役得だけどね」

 高橋はようやく諦めたのか、気を取り直したように言った。そして相変わらず口が上手い。

「ほら! ほらっ! 聞いた? ナオちゃんも、ちょっとは高橋君のこと見習ったら?」

 うるせー。

 そんなん言ったって、人には得手不得手があるんだよ。


「とりあえず、立会人の件はわかったから、昼休みが終わる前に始めてくれ」

 

 まひるが自分の弁当を開きながら、そう促すと、つばめはいつもより大きめの弁当箱を取り出した。

「じゃあ、まずはあたしからいくね。はい、どうぞ」


 俺は弁当を手渡されて、早速、包みを開く。


「げっ――!」


 蓋を開けると、思わず声が出た。

 ご飯の上に、オレンジ色した鮭フレークが、ご丁寧に「ハート型」に散りばめられていたからだ。


「可愛い彼女のお弁当を『恥ずかしい』とかのたまう罰当たりなナオちゃんのために、あえて定番の恋人デコでまとめてみました。照れ屋のナオちゃんには刺激が強過ぎたかしら……って、あっ! ああー!」


 俺が箸でハート型の上半分を突き崩して大口で食べてしまったのをみて、つばめは声にならない声をあげた。


「なにすんの!」

「ほれはこっちのへりふだよ!」


 こいつは、こういうことをする奴だから、素直に弁当を頼む気になれなかったのだ。明らかに俺をからかって楽しんでやがる。


「このむっつり!」

「むっつりは関係ないだろ!」

 俺はご飯を急いで飲み込むと言った。

 つばめの罵倒は、今のこの流れとは脈絡がない。純粋な悪口だ。


「ったく」と言いながら、俺は口の中に残った鮭フレークの味に意識を向けた。すると、意外なことに気が付いた。


「ん、あれ……。この鮭フレークって、もしかして手作り?」

「へえ、よく気付いたね」

 つばめが事もなげに言った。


 細かいそぼろ状になった鮭フレークは、市販のものに比べて、身が柔らかく、しっとりとしていて、脂が濃い。ご飯と一緒に噛み締めると、みりんの甘味と一緒に舌の上で溶け、米粒を包み込む。


「鮭フレークって作れるんだ。ちょっと貰っていい?」

「もちろん。取り箸どうぞ」

 つばめが新しい割り箸を渡すと、高橋は一口分とり、自分の手の上に乗せてから口に入れた。


「うわっ、なにこれ。美味っ!」


「私も貰うよ」

 そう言って、まひるも高橋が手にしていた箸を取り上げ、同じように一口食べた。

「――相変わらず、つばめの料理の腕には感心させられるな」


 どうやら、二人とも、かなりの高ポイントらしい。

 プレーボール直後の、ご飯だけでこれなのだから、思ったよりも厳しい戦いになりそうだ。

 俺は落ち着いたところで、改めて、弁当の中身を確認してみる。


 卵焼き。

 一口カツ。

 アスパラガスとプチトマトのサラダ。

 スイートポテト。


 さすがに勝負とあって、かなり豪華なラインナップといっていいだろう。

 高橋とまひるが自分たちの分を取り分けてから、俺も箸をつけていく。その出来栄えは、高橋とまひるがほとんど一息に食べきったというだけで察せられるだろう。


「この卵焼き、ほうれん草と明太マヨがとじてあったんだけど!」

「こうして食べてみると、コクのあるマヨネーズとピリ辛い明太子がほうれん草の苦みに異様に合うな」

「こんなん絶対ご飯止まらんやつでしょ」


「チーズかぁ……。一口カツにチーズかぁ……。これは、さすがに反則じゃないか、つばめ?」

「サク、ジュワ、トロって、え? なんで? 冷めてるのになんで?」

「駄目だな……。太ってしまう……。いや……いやいや、駄目だ駄目だ!」


「うんうん。味付けは胡麻油と塩か。うんうん、アスパラって、こんな美味しいもんなんだね」

「ふうむ、緑と赤で彩りもいいな。目にも舌にもちょうどいいアクセントになってる。しかし、いい味だな、これ」


「あれ、これカボチャかぁ!」

「私は、これさつま芋より断然好きだな。自然な甘さが引き立っている」

「あー。なん、これなんよ。舌の上で幸せが溶けてったんだけどー」


 ほとんど絶賛と言っていいだろう。

 俺もつばめの家で手料理を振る舞ってもらったことがあるので、その実力は知っているつもりだったが、事前の予測値を軽々とクリアしてきている。きっと、この日に臨んで、エースを投入してきたに違いない。


 だが、俺には秘策がある。


「じゃあ、次は俺の番だね」


 そう言って、俺は作ってきた弁当を自分で開く。


「なっ」

「げっ」

「はっ」


 三者三様の反応が生まれたが、いずれも驚きと戸惑いが共通していた。


「……ナオの弁当、めっちゃ茶色くない?」

「美味そうだろ――?」


 俺は自信をもって答える。弁当箱には隙間一杯に詰めた白飯のうえに、焼いてタレを絡めた肉がぎっしりと詰まっている。

 俺の弁当のテーマはズバリ肉。それも極上の黒毛和牛サーロイン肉を用いた「ステーキ丼弁当」である。


「まあ、食べてみてくれよ」

 そう言って、俺は高橋とまひるにも少しずつ取り分けて、弁当箱はつばめに手渡す。


「なんか永嶺さんの後だと落差が凄いな」


 高橋がそう言いつつ、肉をのっけたご飯を口に入れ顔色を変えた。

 つばめとまひるもそれに続き、やはり絶句する。


「な、なにこれ。美っ味ぁ……」

 高橋の口からようやく出てきたのは感嘆だった。


「……これ、いくらの肉使ったんだ?」

 まひるも呆然としている。


「く、悔しいけど、お箸が止まらない!」

 つばめに至っては、弁当箱を抱えて、パクパクと食べ始めた。


「ふっふっふ。どうやら、俺の弁当の凄さに気付いたようだね」

 俺は勝ち誇るように言った。

 今回の勝負に当たって、俺が用意した秘策。それはシンプルでいて、だからこそ小細工を必要としない、「ただ、ひたすら高い肉を使う」というものだった。


「グラム五千円のA5ランクの肉で作った弁当はさぞ美味かろう」


 昨日の放課後、わざわざあじさいマートのなかにある肉屋まで行って、一番高いブランド和牛を買ってきたのだ。しかも焼いた肉に絡めているタレはウナギのタレである。ウナギの濃い脂を旨く喰わせるためのタレは、超極上和牛の脂にもよく調和する。口に入れた瞬間、タレのこってりとした甘辛い砂糖醤油味がダイレクトに脳髄神経を刺激し、刹那の後に暴力的なまでの極上の牛脂のスープが口の中で弾け、噛み締めると柔らかい肉と米が混じり合う。

 日本人の本能が、この美味しさに逆らえるはずはない。


「こ、こんな品性の欠片もないお弁当にぃぃ――」

 

 そんなの知るものか。弁当勝負の評価基準は味のみ。ならば最強の剣を用意し、力任せに振り下ろせば、それだけでいい。たとえ技において遅れをとろうとも、勝てばよかろうなのだ。

 

「う、うわぁ……」

 高橋とまひるがひいている。

 今や弁当の鬼、略して弁鬼と化した俺にとっては、その冷ややかな声すらも、涼し気で気持ちいい。

 

「ご、ご馳走様でした」

 つばめがようやく弁当を食べ終わった。俺は勝利を確信していた。これだけ夢中に食べていたのだから、さすがにつばめも負けを認めざるを得ないだろう。


「じゃあ、そろそろ勝負の結果を決めようか」

 俺は勝者の余裕を漂わせながら言った。

 すると、つばめが悔しそうに俺を睨んだ。


「こんなの……認めない」

「なにがだよ?」

「だって、お弁当は毎日のものでしょう。だから、手軽で安くて美味しくて、しかも身体のことも考えて、栄養満点じゃないといけないのに!」

 

 つばめの発言はもっともだったが、かといってこれは勝負なのだから譲るわけにはいかない。

 俺はまひるに水を向けた。


「久保さんはどう思う?」

「うーん。確かに、山本のやり方はどうかと思うが、今回は味比べという約束だったというからな。それなら、あらかじめレギュレーションを確認しておかなかったつばめの落ち度じゃないかな」


 よし。さすが生徒会長。

 きっとこう言ってくれるだろうと信じていたからこそ、まひるに立ち会いをお願いしたのだ。


「俺もまあ永嶺さんに味方してあげたいけど、純粋にどっちが美味しかったかと言われればナオの肉かな。つーか肉。肉だわ」


 こうなると、高橋も公平性の観点からつばめの味方をするわけにはいかなくなる。全ては狙い通りだ。

 つばめが机に突っ伏すほどに俯いて、「ううう……」と低い唸り声をあげた。


「つばめ、往生際が悪いぞ。ちゃんと負けを認めろよ」

「わかった。今日のところは、ナオちゃんのお弁当の方が美味しかったことは認める!」

「なんだよ、その奥歯にものが挟まったような言い方は?」

「でも、ナオちゃんがルール違反じゃなかったとしても、あたしがルールを間違って解釈していたのは事実でしょう。いわば、あたしはハンデつきで勝負していたようなものなんだから、それで勝敗を判定するなんて、フェアじゃない」

「そんなの、つばめの過失だろう!」


 俺はそう強硬に主張した。だが、最初から屁理屈でまるめこもうとしたのは俺の方なのだ。万事において友好的調和を主義とする高橋が、それもそうかもな、と呟くと、どうも流れが変わってきた。


 まひるがこの場の裁定を判じかねたように重たい口を開く。


「しかし、つばめはそれでどうしたいと言うんだ。勝負をやり直したところで、今度は山本が一方的に不利な条件になってしまうぞ」

「だから、あたしはあくまでお弁当の条件を守るっていう条件で、もう一度チャンスをちょうだい。そうしたら、安上がりで、栄養バランスがよくて、しかもナオちゃんよりも美味しいお弁当を作ってみせる」


 これが料理マンガなら、「ええッ、安上がりで、栄養バランスがよくて、しかも特上サーロインステーキ弁当よりも美味しいだってぇ――!」と、驚くところだろう。


 だが、現実は甘くない。


 デリシャスイズマネー。

 弘法筆を選ばずというが、それは道具の話であって、優れた料理人はまずなによりも素材を厳選する。

 しばしば料理人が「素材の味を最大限に引き出す」というくらい、料理において素材の質が占める比率は大きいのだ。


「つばめ、悔しいのはわかるが、できもしないことを言うもんじゃない」

 俺はそう諭したが、つばめは首を縦にはしなかった。

「そんなこと言って、やってみないとわからないでしょう!」

 できる、と断言しなかったのは、やはりとりたてて勝算があるわけではないのだろう。


「まあまあ。本人がそういうなら、チャンスくらいあげなよ」

 と、ついに見かねたのか、高橋が助け舟を出した。

「そうだな。さっきはああ言ったが、正直なところ、このまま山本の勝利とするのも後味が悪い」

 まひるも同意する。


 どうやら、いつの間にか劣勢に立たされていたらしい。

 俺はやれやれと溜息をついた。

 どうやら立会人をつけたのが、今度は俺にとって仇となったようだ。


「わかったよ。そこまで言うなら、泣きの一回を認めてやるよ」


 俺はここぞとばかりに上から目線の物言いをした。

 よもや負けるとは思わなかったが、もしものことがあれば、強く出れるのは今だけだからだ。器が小さいのではない。リスクヘッジと言って欲しい。


「でも、明日は土曜日だろう」

 まひるが言った。別に来週の週明けでも構わないような気はしたが、準備期間が長いと、それだけつばめが有利な条件になるのではという意味合いが、言外にあるらしい。さすが生徒会長というか、公正な立会人と見込んでお願いしただけあって、つばめに肩入れする気はないようだ。


 その意図はつばめにも伝わったらしく、困ったように俺たちの顔をうかがった。


「そうだった……。どうしよう? 皆がよければ、明日、家に来てくれてもいいんだけど……」


 そんなつばめをみて、まひるが、乗りかかった舟だしな――と嘆息するように言った。


「ちょうど予定もなかったことだし、つばめの家人が構わないのならお邪魔させてもらうよ」


 すると、高橋も追随した。


「永嶺さんの家って、ナオん家の近くなんだよね。永嶺さんの手料理をご馳走してもらえるなら、俺も行くよ。明日はバスケの練習もないし」


 こうなってくると、一同の視線が自然と俺に集まってくる。


「わかった。俺も行けばいいんだろ」


 どうせ明日は暇していたし、つばめの家は歩いていける距離にある。俺に断るという選択肢は残されていなかった。

 しかし、昼を一緒に食べたことからはじまって、なんとも面倒くさい展開になってしまった。


「それじゃあ、明日は昼前にあたしの家に集合で……」


 と、つばめは言ってから、何かに気付いたらしく、はっと表情を一変させた。

 それからつばめは、まるで万年ぐーたら社員が時折みせるような、やけに真剣な顔をしてみせると、今度は同じ内容をわざわざ言い直したのだった。


「――いいでしょう。それなら明日、あたしの家に来てください。本当のお弁当をお見せしますよ」


 そういうのはいらない。


 〇


 俺はバス停で高橋と落ち合った。

 高橋が、あまり道に詳しくなくて不安だというので、わざわざ迎えに行ってやったのだ。 


「おっす」

 バスから降りると、高橋は俺の肩を叩いた。


「おお、おはよう」

「いや、二度寝しちゃってあやう遅刻するところだったわ」

 そう言いながら、まだ眠そうな顔をしている。寝すぎだろ、と思いながらも、高橋の頭に寝ぐせがたっていることに気付いて、教えてやる。

「やべっ」

 そう言って、高橋はハネた髪の毛を手で撫でつけた。 


「そういえば久保さんは?」

「永嶺さんの家まで、車で送ってもらうって言ってたよ」

「なんだ。それなら一緒に乗せてもらえば良かったのに」

「いや、そんなん、よう頼めんわ」


 高橋が苦笑いする。

 まあ、それもそうか。いくら方向が同じだといっても、同級生の女子に、ついでだから送迎の車に一緒に乗せてなんて頼む勇気は俺もない。


 つばめの家に着くと、ちょうどつばめの家の前をまひるがウロウロとしていた。


「あっ、久保さん。もしかして今来たところ?」

「ああ、おはよう。ちょうどいいタイミングだ。つばめの家ってここでよかったんだよな?」


「車で来たんじゃなかったの?」

 高橋が周りを見回しながら尋ねた。


「私を降ろして、もう帰ったよ。また迎えにくる」

「そうか。折角だから、久保さんの家の車ってみてみたかったな。凄い外車とか乗ってそう」

「なに、ただのヤ〇セだよ」

「へえ、日本車? あんまり聞いたことないな」

 

 高橋が、なんだと拍子抜けしたように言った。違うぞ、高橋。ヤナ〇とは、そういう意味じゃないぞ。


「それよりチャイム鳴らすよ」

 俺は二人の会話に割り込むと言った。

 こんなところで立ち話をしていてもしょうがない。


 インターホンの呼び出しボタンを押すと、家の中からすぐにつばめが出てきた。


「いらっしゃい。道分かった?」

「大丈夫。すぐに分かった」

「ナオちゃんには聞いてない」

 つばめが冷たい視線で俺を睨んだ。

 まあ、それもそうなんだが、高橋は俺がここまで案内してきたのだ。もっと優しくしてくれてもよさそうなものだ。


 しかし、すぐに気が付く。

 つばめの目には濃いクマができていた。おそらく、昨夜は俺に勝つ料理を、夜遅くまで考えていたのだろう。

 そのわりに、表情が明るいのは、勝算があるからだろうか。


「じゃあ、あがってよ」

 そう言われて、俺たちはつばめの家にあがりこむ。


「なに作ってくれるんだろ?」

 高橋が俺に聞いてきた。

「なんだか自信がある風だけど、想像もつかないな」

 リーズナブルで、栄養バランスもよくて、なおかつ俺のステーキ丼よりも美味しい。そんな条件の料理ができるとは思えない。


「もう、すぐにできるから。そこに座って待ってて」

 ダイニングに案内されると、テーブルに腰を落ち着ける。

 そのまま、つばめだけがカウンターの向こうのキッチンへ向かう。


 俺たちの視線は、ついそのキッチンへと向けられる。

 材料や道具をみれば、つばめが何を作るつもりなのかがわかるからだ。

 あっ、と俺が声を上げそうになったのは、コンロで寸胴鍋がトロトロと弱火にかけられていたからだ。

 くつくつと煮込まれた湯気が、換気扇に吸い込まれていく。かすかによく熟れた鶏スープの匂いがした。


 つばめは収納棚から大きい鍋をもうひとつ取り出すと、水を一杯に張って、火にかけた。


「ま、まさか!」


 今度こそ俺は声をあげた。

 俺の想像が正しければ、つばめが俺を打ち破るために、用意したメニュー。

 それは――


「そう、ラーメンだよ」


 つばめが俺を振り返ると、言った。


「えっ……、ラーメン?」

 まひるが信じられないといったように声をあげる。


「いや、久保さん、そうじゃない。確かに一見すると大衆食であるラーメンは、ステーキに比べると低廉な料理で、勝利を放棄した選択に思える。しかし、ハンバーグやカレーに並ぶ国民食であるラーメンは、職人という名の『アーティスト』たちの切磋琢磨によって、今や複雑にして多様な進化を遂げている。シンプルで安価な材料を使いながら、高級な料理に勝るとも劣らない『作品』に仕上がっているのも少なくない」


「……ちょっと? ちょっと、山本?」


「しかし、どうかな。値段を抑えつつ、高級和牛の美味しさに勝とうとするなら、ラーメンというのは、確かに悪くないアイディアだ。だが奇しくもナオが言ったように、ラーメンは、ここ数年の急激な進化の結果、素人には太刀打ちできない『芸術品』の領域に達している。その味の核心となるスープひとつとっても、今や多層的でかつ膨らみのある、味の『多次元方程式』が求められている。その繊細なバランスは、職人という名の『美味の探求者』たちが長年の経験によって生み出すものだ。永嶺さんが、いくら料理のセンスに天賦の才があったとしても、一朝一夕で『解の証明』に辿り着くのは難しいと断ぜざるをえない」


「た、高橋もどうした?」


「――それに栄養バランスの観点からいっても、スープには多種多様の具財のエキスが溶け込んでいるとはいえ、具として用いられる野菜は、多くがもやしやネギ。あとはせいぜいほうれん草が添えられる程度で、しかもラーメンそのものの塩分濃度も高く、決して健康的な食べ物ではないだろう」


 さすがに高橋である。その確かな見識は、俺をして唸らせるものがある。

 ただ一人、まひるだけは俺たちの『ステージ』にまだ達していないことに、ようやく気付いたらしく、どうしていいかわからず困惑している。


 俺たちの会話が聞こえたのだろう。キッチンで次の準備をしながらつばめが口を開いた。


「それくらい、ちゃんと計算してるよ」


 そうして寸胴鍋を一旦火からおろして脇に置くと、今度は鉄製の中華鍋を火にかけたのだ。


 そこに油とショウガとニンニクを投入すると、香りが立つまで熱し、豚ミンチを炒めはじめた。


 その行動で、俺はもちろん高橋もつばめの狙いに気が付いたらしい。

 つばめは味噌と各種の醤も加えると、コンロの火を強火にして、鍋を激しく上下させる。香ばしい味噌の香りが一気に立ち込め始める。


「――味噌ラーメンかッ!」


 俺はそこに思いが至らなかった自分に、思わず臍を噛んだ。その隣で高橋が冷静に分析を開始する。


「なるほど、盲点だった。強烈な旨味成分を持つ味噌を味の中心にした味噌ラーメンであれば、素人の平坦なスープであっても、店の水準に匹敵する旨味を構築することが可能というわけか。しかも栄養バランスが悪いというラーメンの欠点も、味噌スープであれば、もやしはもちろん玉ねぎやキャベツやニンジン、コーンといった具の選択肢を増やすことができる。つまり、リーズナブルで、栄養バランスが優れているという条件をクリアすることが可能になるわけだ」


 高橋の述べたことは、全て俺の焦りの内実そのままのものだった。まさか、つばめがこんな勝負手を思いつくとは。これで完全に勝負の行方は分からなくなった。


 つばめは野菜を炒め終わった鍋に、寸動鍋からお玉でスープを掬いだし投入する。それと同時に、湯だったもうひとつの大鍋に、冷蔵庫から中華麺を取り出して入れた。


 ややして麺が茹で上がると、慎重にそれでいて大胆に湯切りをし、黄金色に輝く麺を丼に滑り込ませた。そこに野菜がたっぷり入った味噌スープをいれ、箸で麺を持ち上げ味を馴染ませると、最後にバターを浮かべた。


「お待たせ」

 

 そう言って、つばめは丼を持ってくると、俺たちの前に置いた。

 むわっと湯気が拡がり、食欲を刺激する香りが鼻腔を直撃する。


「いただきます」


 俺はそう言って、用意された箸とレンゲを手にすると、まずスープを一口すすった。


「うまッ――!」


 思わず、そう洩らしてしまった。

 俺は味噌バターラーメンはクリーミーな風味があまり好きでないのだが、目の前のスープはあくまで味噌がメインで、バターはコクを生み出すための隠し味として使われている。

 なにより、やや辛みのある味噌が、野菜のエキスが溶けだしたスープと渾然一体となり、食欲と旨味を最大限に引き立てている。


 俺は麺を箸で持ち上げると、口に入れ、一気に啜った。スープに絡みやすい中太の縮れ麺が、極上のスープを包み込みながら、喉の奥を滑り込んでいく。

 麺の合間に、キャベツやもやしなど具だくさんの野菜を頬張ると、しゃきしゃきの食感が歯を楽しませてくれ、飽きることがない。

 悔しいが、美味過ぎる。


 高橋をみても、ほとんど脇目もふらず一心不乱に食べている。まひるは猫舌なのだろう。ふーふーして麺を冷ましながら啜っており、スピードこそゆっくりであるが、言葉もなく食べることに集中している。

 

 俺は一気に食べ終わると、すっかり満足感に包まれてしまった。

 ほとんど同時に、高橋も食べ終わり、しばらく経ってからまひるも続いた。


「――どうだった?」


 全員が食べ終わったのを見計らって、つばめが感想を求めてきた。


「悔しいけど美味かった。それは認めざるをえないよ」


 俺は言った。

 正直なところ、俺の高級和牛ステーキ丼と甲乙つけがたいレベルだっただろう。つばめの発想力と努力には素直に感服してしまう。


 俺に続いて、高橋が口を開いた。


「俺は永嶺さんに一票だな。確かにナオの肉も美味しかったけど、やはりそれは値段あってのことだからね。味が同水準なら、俺は永嶺さんの料理の腕に軍配をあげたい」


 俺は目をつぶると、大きく息を吐いた。

 おそらくそうなると予想していたが、やはりはっきりした結果を聞かされると、精神的にくるものがある。


「久保さんはどうだった?」

 と、高橋が聞いた。


「うん。確かにつばめの味噌ラーメンは美味しかったと思う。美味しかったと思うんだが……」

 まひるには珍しく、どうも歯切れが悪い。まるで奥歯に物が挟まったような言い方だ。


「どうかした?」

「まあ、なんというかだな。申し訳ないが、そもそも論をさせてもらうと――」

 と、まひるは申し訳なさそうにつばめの顔をみると言った。


「……ラーメンって、弁当か?」


「あっ!」

 と、言葉を失ったのは、俺と高橋とつばめで全く同じタイミングだった。


 興奮しすぎて忘れていた。そもそもこれは弁当対決だったのだ。

 高橋も俺と同じように、そしてつばめも難問に頭を悩ませるあまり、すっかりそのことが抜け落ちていたのだろう。


 俺たち三人は沈黙した。

 徒労というのも違う。ただなんともいえず気まずいような、それでいて虚しいような、精神的な疲労感が残された。


 時計の秒針が盤上をくるくると周回しても、誰も何も言わなかった。

 それは長い長い沈黙だった。


 ただ、まひるだけが余計な指摘をしてしまったと言わんばかりに、ずっと申し訳なさそうな顔をしているばかりだった。


 〇


「はい、ナオちゃん。あーんして?」

「やめろ!」


 翌週のことである。

 

 結局、俺たちの弁当勝負は引き分けに終わった。

 俺が金の力にものを云わせるという荒業を繰り出したのに対し、つばめが味噌ラーメンという反則メニューで応じてきたことから、もはや泥仕合もいいところで、公平な判定もあったもんじゃないと判断された。

 結局、まひると高橋の裁定で、両者水入りとされたのだ。


 その結果、月、水、金をつばめ、火、木の弁当を俺が担当することになったのだ。


「あのさあ、勝った方が弁当作ってあげるって、普通、逆だろう。はっきり言って、のろけが過ぎて、胃やけしてくるわ。そんだけ仲良しなんだったら、一週間も分け合って交互に作れよ」


 とは、高橋の弁。

 その高橋の提案につばめとまひるも賛同し、三対一になったことから、結局押し切られてしまった。


 そして、月曜日である今日はつばめが担当の日である。

 すると、こともあろうにつばめは二段のお重に、二人分の弁当を詰めてきたのだ。


「だって、ナオちゃん、おかずを取りにくそうにしていたでしょう?」

「ちゃんと箸が届くから、余計なことすんなよ」


 つばめは、えー、と不満そうな口ぶりだが、頬が緩んでいる。俺が嫌がるのが楽しいのだろう。なんて嫌な性格なんだ。


「明日のナオちゃんのお弁当も楽しみにしてるね」


 すると、それをみていたまひるが心底うんざりしたように、首を振った。


「まったく、目の前でそんなにみせつけられたら、あてられてしまうな」


 俺はこんな日が、週末まで続くことを想像し、激しく後悔したが、過ぎた出来事はもう取り戻せない。

 つばめ特製の絶品のだし巻き卵を、かすかなほろ苦さと一緒に奥歯で噛み締めるのだった。


 これが俺たちの間で勃発した仁義なき弁当戦争の顛末である。


 そうそう。俺たちの対決に陰ながら注目していたクラスの連中は、熾烈な弁当対決の末に、日替わりで弁当を作り合いっこするようにあった俺たちに戦慄し、バカップルを超えたバカップル――バカップルの神として礼拝するようになったという。


 まったく、そんな称号、神様に失礼……


……ってこともないな、うん。

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